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平凡な悩みに立ち向かうオヤジたち
★★★★☆
三十代後半、息子や娘たちは、小学校高学年か中学生という不安定な時期を迎えている。
主人公の父親たちはみんな、そんな自分の子供たちにどんなことが起こっているのか、
いじめを受けていないか、いつか非行行為に走ってしまわないかと不安を抱える。
世間ではごくありふれた、まったく珍しくもないことだ。
しかし重松清作品は、そのありふれた珍しくもないことを、たった五十ページで、
リアルに書ききっていた。
これからどうなるか、どうすればいいのか、そんな悩みが等身大に描かれている。
その辺りを読むだけで、つい共感を覚えてしまった。
しかも、各ストーリーの締め方がいい。
締め方というのはただ、「〜はこうすればいいんだ」というような絶対的な答えを見出すわけではない。
ただ、悩みがある中でもがんばろう、精一杯生きよう、そんな締め方になっている。
一見すると、まだ足元が崩れ落ちる恐怖が消えたわけではないじゃないか、
ハッピーエンドではないのではないかと思われてしまうが、そうではない。
後者の締め方のほうが、さらに我々読者を日常生活について考えさせてしまう。
これこそが、重松清作品の「魅力」ではないか。
そんな魅力があるからこそ、感動は錆びつかず、永遠の輝きを放つ。
私はそんな重松清作品を、さらに気に入ってしまった。
おとうさんの、現実的なファンタジー
★★★★★
ビタミンとは、生命活動に欠かせない有機物なのだそうだ。
それは炭水化物のように大量には要らない、ほんの少し摂取すれば十分なのだ。
しかしながら現代社会では、心に効く“ビタミンF”を摂るのは難しい。
私自身もビタミンF不足であるし、この物語に出てくるおとうさん達も最初はそうだ。
では、このビタミンはどこで得ることが出来るのだろうか。
それは、彼らが生活のあちこち散らばっていることを教えてくれる。
頼りない息子、いじめに遭う娘、交流がない両親・・・
良好とは言えない互いの関係の中で、ほんの少しだけの勇気を出すだけで、
“希望”というビタミンが少しだけ得られるのだ。
彼らには、理想の家族生活とは違う、という認識があった。
しかし皆最後に、これから好転するかもしれない、という希望を持つ。
実際に好転するのかはまた別問題で、家族を前向きに捉え始めることが重要なのだ。
そこに至るプロセスは、出来すぎている気もするが、
ひとつのファンタジーなのだと思うと、すんなり受け入れられる。
そういった、優しく心温まる物語。読後感が大変よいので星5つ。
ビタミンFをおすそ分けしてもらいたい人にお薦め。
そして過去にも未来にも、おとうさんとなることのない女性に読んで欲しい。
うすっぺらなステレオタイプ
★★☆☆☆
30代後半の男性を主人公に据えた短編集。「自分の人生はこんなものなのか」と思い悩んで妻に辛く当たる夫や、息子との距離の取り方がわからず、「もっと強い息子が良かった」と考える父親などが出てくる。
少なくとも、30代中盤〜後半の僕の友人たちは、こんなにつまらない人物ではない。30代後半の男性にありそうな要素をかき集めて、結局、どこにもいないうすっぺらな人物を作り上げてしまった印象だ。こういうのを、ステレオタイプというのだろう。 なぜこの作品が直木賞を獲ったのか謎である。
通り過ぎていく日常
★★★☆☆
平穏な日常におきた事件を
もとに家族や日常を見直すような
視点で書かれています。
気にしなければ、通り過ぎていく
日常に焦点を当てています。
私には残念ながら、
どれもしっくり来ませんでしたが、
表現力のある文章だと思いました。
こころのビタミン
★★★★★
重松さんの作品を読んで感じるのは「慈悲の文学」ということである。
「慈悲」なんて書くと大仰なようだけど、漢文読みで「悲しみを慈しむ」と言うこと。
重松さんの作品には、悲しみを慈しむ気持ちが常に感じられます。
悲しみに浸ると言うことではなく、悲しみを慈しむことは哀れな自分であってもその姿そのままに愛することであり、それはつまり「生」を大切にすることである。
「母帰る」という作品は、まさに身近に起こった実話にそっくりで驚きを禁じ得なかった。
全く納得できない現実だった。
「理由」がわからなかった。
でも「理由」とか「意味」とかで表すことのできない何かが存在する。
今回のことで、いろんな角度から現実を見直して、理屈ではとうてい結論づけることのできない感情におぼろげながら思いをはせることができた。
今の時代に最大に欠落している他者への「想像力」。
多くの人が重松作品に触れていけば、きっと世の中に暖かみが生まれてくると確信する。
そういう意味で重松作品は心のビタミン剤である。