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“反転”するグローバリゼーション

価格: ¥2,310
カテゴリ: 単行本
ブランド: NTT出版
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グローバリゼーションにまつわる,さまざまな問題のうず ★★★☆☆
緒言によれば本書は「「グローバリゼーションの広がりとともに,ローカルなもの,自分らしさへの確固たる根拠を求める動きが強くなる」という現象を,どのように理解すべきか,という関心の下に執筆されている」という.

ギデンズの議論を軸として,さまざまな話題が関係づけられている.そのなかには民間企業による (民営化された) 軍事活動やセキュリティ・ソフト (ウィルス対策ソフト) の開発,「第 3 の道」から「新進歩主義」への移行のなかでの「民営化」から「公共化」へのシフト,安全より安心をもとめる「子供の安全」,福祉活動が私的な活動になって労働と余暇の境界が融解していること,フィンランド人が直面しているプロテスタント倫理にかわるべきハッカー倫理などなど,さまざまな問題がちりばめられている.それらは上記のテーマに関連づけられているが,その文脈からうきあがってみえる.

よみおわってのこるものは,これらのさまざまな問題のうずであって,なにも整理された感じがしない.しかし,これらのグローバリゼーションにかかわる問題のカタログとして,重宝するであろう.
暴力は、政治における最後の切り札(副島隆彦著『決然たる政治学への道』) ★★★★★
「グローバルな競争環境を勝ち抜く能力を有した者だけ」が「世界を生きることができる」すなわち、
「あらゆる問題の所在が・・・当該個人に帰属される」グローバリゼーションに対し、
「「生き残り」のための様々な制度が正統性を持つ」という多元的所属の観点から、国家の重要性を喚起した著。

追記・・・
「ナショナリズムは、構築物であるがゆえに脱構築できるが、信仰は脱構築できない」
「後期近代と言おうと、ポストモダニティと言おうと構わないが、
ある時期以降の思想が、近代という足場そのものを蝕み、その自己言及性や再帰性に着目してきた一方で、
人びとの意識のレベルでは、神話なき後の世界の、個別化された「信仰」がゆっくりと胚胎してきた、というのが、私の認識だ。
こうした信仰を、神話と同様に脱構築できると見なすのは安易である」と述べているが、
これは、呉智英・宮崎哲弥共著『放談の王道』における呉氏(「確実な根拠を求めることそのものがニヒリズムの搦手・・・最後には決断しかない」)と同じ立場で、
「最後の最後まで論理を手放さない、論証を諦めない」宮崎氏に、以下のように脱構築されてしまっている。
「自我はそもそも無いので決断する主体が見当たらない」「「信じる」主体も実はないのですから、狂うほどの信心は我執そのものに他なりません」

「求めれば底のないこのゲームは、われわれの実践を不可能にはしない。
なぜなら、われわれの実践は根拠に基づくものではないからである(永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』)
参考文献を<反転して?>継ぎ接ぎしたエッセイ ★☆☆☆☆
グローバリゼーションをテーマとした書物は、この数年で大量に生産されてきた。そうした近い過去の、そしてそれらを生み出した遠い過去の著作物を主に材料として本書は編まれている。どんな書物もそうであるが、この手の時論的解説と思想的エッセイを足して2で割ったような著作は、なかんづくそのような継ぎ接ぎ的なものになる。要はいかにうまく編集するかである。巻末の参考文献をみれば、そのほとんどがすでに邦訳されているものである。このことからも著者がいかに効率よく本書をまとめようとしたか、あるいはまとめたかがわかる。
本来、編集には様々な素材のコラボレーションという面と、異質なものの併置による独創的なものを生み出す面がある。まあ双方同じことの言い換えに過ぎないかもしれない。

「この世に新しきものなし」とは昔から言われることであるが、本書のグローバリゼーションが説くものも以上の認識と大差ない。「月見バーガー」という日本マクドナルドの「オリジナル商品」をもって再帰的近代の例とし、世界の単純なマクドナルド化などはないといってみても、それが何を言ったことになるのだろうか? 著者鈴木はそれを参考文献の記述から引用しているが、これなど社会学の詰まらなさが典型的に現れた部分だろう。

本書は俊英社会学者の活動成果の1つである。社会学は当然にも、マルクスやウェーバーの古典的著作を踏まえたうえで書かれているはずである。彼らの著作を踏まえない社会科学や思想は在り得ない。それが常識である。参考文献の著者たちも古典的著作を踏まえているだろう。意識的に、あるいは意識せずとも。
本書はこの後者、つまり無意識的レベルでの踏まえ方と見た。いや、というより著者はマルクスやウェーバーに真面目に取り組んでいるとは思えない。こういうのはイージーライダーという表現は当てはまるのだろうか? イージーライダーは多分に自分がコミットしないことに意識的である(ズルイ)からなあ。
たとえば、カリニコスの著書から「グローバリゼーションの資本運動は、マルクスの古典的分析によってのみ正しく理解されるのであり、最終的な解決の手段としては、ラディカルな政治革命がなされる必要がある」を引用し、著者はこれに「むろんこの結論をそのまま支持するわけにはいかないが・・・」と簡単に留保をつけつつも、自らの文脈に引き入れる材料としている。
この引用中にある情報、あるいは分析自体がおそろしく難しい問題である。なぜ支持できないかを明確にする必要があるのではないだろうか。マルクスの古典的な分析は何を意味するのか。それはともかく、そもそもグローバルな資本運動とは? ここの著者の文脈では、たとえこれを引用して、自らの行文の傍証とするにしても、安易に「支持するわけにはいかない」とは書けないはずであろう。そして、本書では後段にも、これへの解答はない。鈴木は社会学者であるから、文化的な解答さえ出せば事足りるということか。
ことほど左様に、本書は仮に教科書とした場合でも、如上の序章部分で講義は進まなくなるだろう。学生が講師の話をキチンと聴き、疑問に対して質問を投げかけるとしてだが。
なるほど「月見バーガー」云々等のエピソードは気が利いているのかもしれない(評者はそうは思えないが)。
「暴力は、政治における最後の切り札(副島隆彦著『決然たる政治学への道』)」 ★★☆☆☆
「グローバルな競争環境を勝ち抜く能力を有した者だけ」が「世界を生きることができる」すなわち、
「あらゆる問題の所在が・・・当該個人に帰属される」グローバリゼーションに対し、
「「生き残り」のための様々な制度が正統性を持つ」という多元的所属の観点から、国家の重要性を喚起した著だが、
「グローバルなものとローカルなものへと引き裂かれていく」個人を望んでいるのも、実は国家である。
佐藤優氏曰く「社会的弱者はバラバラで、かつ従順な労働力であってくれるのが最も都合がいい(『ナショナリズムという迷宮』)」
「収奪する階級=官僚(佐藤優)」という国家観を、根拠を以って脱構築されたい。

追記・・・
「ナショナリズムは、構築物であるがゆえに脱構築できるが、信仰は脱構築できない」
「後期近代と言おうと、ポストモダニティと言おうと構わないが、
ある時期以降の思想が、近代という足場そのものを蝕み、その自己言及性や再帰性に着目してきた一方で、
人びとの意識のレベルでは、神話なき後の世界の、個別化された「信仰」がゆっくりと胚胎してきた、というのが、私の認識だ。
こうした信仰を、神話と同様に脱構築できると見なすのは安易である」と述べているが、
これは、呉智英・宮崎哲弥共著『放談の王道』における呉氏(「確実な根拠を求めることそのものがニヒリズムの搦手・・・最後には決断しかない」)と同じ立場で、
「最後の最後まで論理を手放さない、論証を諦めない」宮崎氏に、以下のように脱構築されてしまっている。
「自我はそもそも無いので決断する主体が見当たらない」「「信じる」主体も実はないのですから、狂うほどの信心は我執そのものに他なりません」

「求めれば底のないこのゲームは、われわれの実践を不可能にはしない。
なぜなら、われわれの実践は根拠に基づくものではないからである(永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』)」
大学の授業の教科書? ★★★★☆
難解・・・。
かなり難解・・・。
素人に簡単に説明できないことは、専門家に任せておけばいい
っという態度を肯定しがちな私としては無理。

難解なものを難解なままで捕らえておいて、
著者の某ラジオを聴けば、なーんとなくいいたい事が分かった。
おそらく大学の授業の教科書を意識したんだと考える。

しかし本を読めば読むほど”偏在”するなぁ・・・

ちゅーことで難解ながら再読してみた。
しかしなんかずれてる・・・。

うーん。言いたいことはわかるんだけど・・・。
もうちょっと違うほんを読んだらその違いがわかるかなぁ?