指摘そのものは極めて重要
★★★★☆
オンラインゲームのなかに構築されているヴァーチャル・リアリティは、いまやひとつの仮想経済圏を成立させるほどの、そして現実の経済圏とも相互応答しはじめるほどの水準に達している。また、データベースに蓄積された個人情報をコンピュータが分析して、自分が次に購入すべき商品をシステムの側で決定(推薦)してくれるというサービスが広がっている。こうして、情報化の進んだ社会のなかで、物理的・実体的な存在としての「わたし」は徐々に背景に退き、データとしての「わたし」が前景化しているのである。
さらに、「データとしてのわたし」を存在させているデータベースが、あらゆる生活用品にICチップを埋め込んでネットワーク化し、コンピュータで管理するという「ユビキタス」の構想と結びつけば、「わたし」が何も決定しなくても人生と社会が動いていくような時代がやってくるのかも知れない。情報化は「わたし」を客観的事実に変えてしまうのであり、人々は「宿命」を受け入れるかのようにして所与の「現実」にぴったり寄り添って生きていくようになる。
こうした妙な未来予想が語られるのは、鈴木が、現代のウェブ社会を生きる若者たちの心理がすでに「宿命的決定論」、「端的な事実への志向」に覆われつつあると見ているからだ。「記憶」よりも(携帯電話などを用いた)「記録」に強く依存し、「データベース」に問い合わせて自分の行動指針を求めるような傾向がすでに現れてきているし、若者たちの「マスコミ批判」は「書いてあることが『事実』であったか否か」だけを問題にしているかのようだし、「ぷちナショナリズム」と呼ばれるような現象は「国家は大事だから大事に決まっている」という同語反復的な事実の肯定に過ぎないし、近年のサブカルチャー作品には「自分が閉じこめられてきた環境からの脱出」というモチーフが見られなくなったのだという。
鈴木は『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)の中でも、若者たちが「やりたいこと」という内発的な動機を失って、データベース内の自分の行為の履歴を参照して「欲望すべきもの」を見つけ出した上で、お祭り騒ぎ的な熱狂でもってそれを「私の欲するもの」としてムリヤリ肯定し、しばらくするとその欲望の無根拠性に絶望するという、躁/鬱のサイクルを生きているのだと指摘していた。
「カーニヴァル」的に「宿命」を肯定して生きることは、行為のたびにその意義について悩みながら生きることよりも、ある意味では幸せかも知れない。しかし「大きな物語」が終焉した現代にあって、一人ひとりが抱いている「宿命」はえてして島宇宙的な幻想となりがちだ。現代とは、「『小さな真実』が無数に跋扈する時代」(p.228)なのである。
こうした社会状況下で、公共的な事柄についての決定がまともなものであるはずがない。決定に参加する人の数が増えれば増えるほど間違いは減っていくと考える「数学的民主主義」や、人々に公共的な意思を強制するようなシステムを設計すればいいと考える「工学的民主主義」といった、新たな民主主義モデルにも期待できそうにない。
そこで鈴木は、「(オタクですら)他者と関わらざるを得ない」というひとつの「宿命」的状況に気づくこと、そしてネット上の島宇宙の外側の社会には、歴史的な「持続」という、ネット上のにわかコミュニティには持つことのできない重みが宿っているのだということに気づくことによって、公共的な領域へと眼を開いていこうと言う。島宇宙的幻想としての「宿命」が宿命的に受け容れ不可能なのだということを、「他者」や「歴史」の存在を根拠として論理化していくわけである。
この処方箋には具体性が乏しく、有効なのかどうかは分からない。また、鈴木の分析は現実の傾向を誇張し過ぎているきらいがあって、こうして状況の大変化を声高に述べ立てること自体が「宿命論」を加速するのではないかとも言いたくなる。しかし、ウェブ技術が生活に浸透するとともに「事実」、「現実」、「宿命」(と思われるもの)に人々が惹かれていく傾向が生まれているという指摘そのものは、重要であると私は思う。そしてそういう事態が生じていることを裏付ける事実が豊富に紹介されているのもありがたい。
凡庸な結論にちょっとがっかり。
★★★☆☆
本書は二部構成になっており、第一部では、ウェブ社会で生きる個人の内面に焦点を当て、これからの高度情報化社会における人間を考察し、第二部でそのような人間が生きる社会はどのようなものになっていくのかを予測しています。
より具体的には、情報化社会ではインターネットとユビキタス環境の融合により、自分の選択した情報が蓄積されていき、「情報としてのわたし」があらゆる場所にわたしを先回りする形で現れ、個人は自分の未来に関する選択をあらかじめ決められていた事柄=宿命として受け入れてしまうのではないかと第一部で著者は主張した後に、第二部でそのような個人、環境が形作る社会とはどのようなものになり、どのようにすれば社会、特に民主主義社会が維持されるのかという問いを巡ってサブカルチャーや様々な社会学、哲学の概念を用いて考察を進めていきます。
著者の提示する宿命論はあまり面白くなく、結局結論も読み進めていくうちに見えてきてしまうような類のものなのですが、その問いに答えを与えるべく用いられる概念−特に工学的民主主義や数学的民主主義と著者が読んでいるもの−には面白さを感じました。
問題提起が良いモノであれば、もっと評価が高かったように思います。
期待をして星3つ。
ウェブ社会論と宿命論
★★★☆☆
情報化社会における「宿命」の前景化、を中心に扱った本です。個人情報の蓄積(「情報としてのわたし」)が、わたしを先回りして立ち現れるようになり、未来の選択が宿命のように前もって決められていた事柄として受け取られるという点に注目しています。
ただ、レコメンド・システムで「宿命」を語るのはいかがなものでしょうか。グーグル化で話題の某勝間氏などは、宿命を加速している(!)ことになります。ウェブ社会と宿命を結びつけるのは強引過ぎるとの印象を持ちました。
宿命論については、マンガや小説の作品論の側面が大きく、文学的主題としての宿命論になっているような気がします。
ウェブ社会についての記述は興味深い点が多く、一読の価値は大いにあると思います。しかし、宿命論につながる際の落差が大きく、興味が途切れてしまい読むのに時間がかかりました。
あまりに凡庸
★★☆☆☆
インターネットが普及し、ウェブ上で情報をやり取りすることが当たり前になったこの社会では、人々の生活がどのように変化するかを展望する書。
技術的な側面から観察した実際的な生活の変容を考察するのではなく、
環境の変化に伴って発生する人々の意識の変化を考察しているのが特徴。
著者は、いつでもどこでもウェブの世界に接続可能になるという現在のウェブ社会の潮流を観察することで、バーチャルな「私」が私自身の意志や欲望を先行するかたちで現出するという現象を捉える。
これを以って、ウェブに接続されることで、我々の未来の可能性が閉じられていくことを懸念するのが本書の問題意識である。
この指摘はまさに、「大きな物語」が失墜したポストモダンな社会を我々はいかに生きるべきか、という重要な問いかけを含んでいる。
そうでありながら、最終的にこの問いかけの着地点を、社会性へ回収するところに設置しており、
前期近代以前のあまりに凡庸なモダニズムの視点で締めくくられてしまっている。
ウェブに関する社会学的評論に、とかく当人の個人的期待や反感を反映した論調が多い中で、本書は冷静な筆致であることは評価できる。
冷静ではあるが、予定調和的な価値基準によるその視点は、
価値基準の流動化しているウェブ社会を批評するにはあまりに凡庸すぎる。
著者の向上心を期待して「あえて」厳しく・・・
★☆☆☆☆
個人情報がそこかしこで蓄積されるユビキタス社会(<遍在する私>)。
「自分の嗜好や友人関係がデータとして保存され、監視されるようになることで、「わたしはこれがやりたいんだ」
「わたしはこういう人間なんだ」という意識を確かなものにしていく」、つまり、
「内発的な動機付けを自己言及的に高めている状態」を、本書では「カーニヴァル」と紹介していますが、
著者の立論力(『カーニヴァル化する社会』、本書))そのものに説得力がなく、
「社会学に基づいた社会診断を生業とする(『<反転>するグローバリゼーション』)」には、力不足だと感じました。
「確たる根拠などないのだとすれば、結局のところ「未来の選択をすること」とは、
「そうだからそうに決まってる」という同語反復的な確信に基づいてなされる出来事でしかなくなる」という件には、特に失望させられました。
苫米地英人氏(「過去の因果で未来は決まらない」)の著書に学ぶべきでしょう。
プロテスタンティズムの召命を根拠と考えるにしろ、著者言うところの同語反復(「そうだからそうに決まってる」)を合理的と考えるにしろ、
焦点は「「強迫神経症的に」自己の振る舞いを決定しなければならない(アンソニー・ギデンズ)」後期近代に対する<構え>ではないのでしょうか?
「自分の選択は自分があえて選んだものであることを自覚し続けなければならない(アンソニー・ギデンズ)」という再帰的姿勢は、
「後期近代に入る一時期においてしか成り立たない」ものではなく、
いつの時代であれ、少数のエリートに<遍在>してきたと考える私から見れば、絶対的な拠り所にこだわる著者の姿が強迫神経症的に見えるのです。
専門用語を解説する小論は慎重で好ましいのですが、著者自身が展開する立論は、
<縁起(釈迦)>という予定調和な結論に、拙速に結びつけられたものに過ぎず、落胆する他ありませんでした。