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社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか (NHKブックス)

価格: ¥1,124
カテゴリ: 単行本
ブランド: 日本放送出版協会
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脱構築の後始末は? ★★★★★
社会学は個々の研究者の個性と興味が色濃く反映されやすいが、この教科書は理論的な側面に焦点が絞られている。浮き足立つことのない手堅い内容ながら、文章は平易で論旨も明快。とても読みやすく、何度も精読したくなる。

前半部分は「方法論的個人主義」及びそれに立脚する経済学や心理学と対比させながら、社会学の視座となる「方法論的全体主義」について解説すると同時に、ナチズムや社会主義によってその価値が不当に見過ごされてきた経緯を概観する。中盤部分では、ロックやホッブスからスミスやヒュームを経て、社会学の古典であるウェーバーとデュルケムに至るまでの社会科学史をたどっており、「近代とは何か」という問いがなぜ社会学の中心的な課題なのかに迫っている。ヨーロッパの近代史や芸術史の勉強にもなって良い。

後半部分は、様々な主義や思想が、自らの、そして互いの矛盾と副作用に悩まされながら錯綜する現代世界の混迷が描かれている。政治学や経済学は、そうした社会的要請に対し、ともすれば無自覚な楽観主義を内包しながらも解決策をひねり出そうとしてきた訳だが、そうした営みの狭間で社会学はどのようなスタンスを取るべきか。筆者はこう答える。「社会的に共有される意味・形式の可変性・多様性についての学問」が社会学であり、それが故に社会学は政策科学から距離を置かざるを得ないのだと。

ただ、常識や伝統や物語を脱構築するのはいいが、破壊の後に創造がないのでは物足りない。哲学と違って具体的な社会事象を扱うのだからなおさらである。社会学者の仕事の成果をどう受け止め、どう利用するか。そうした、政策科学側の取るべき態度についても考察が欲しいところではある。
タイトルに魅せられて ★★★☆☆
 図書館の新着本にこの本がありなんとなくタイトルに興味がわき借りました。ほぼ一日で一気に読みました。作者は理論が社会学にも必要だと主張しあれやこれや述べて結局社会学には理論はできないという感じで終わっています。では長々述べたことはいったい何だったのか?理論を確立するこができないという論証だったのか?初心者の私にはよく理解できなかった。思うに、人文科学という領域に社会学が属するには基礎理論みたいなものは必要である。なぜなら基礎理論がなかったら結局は主観的になり説得力がなくそれは科学とは言えないからだ。社会というのは掴みどころがあるようでないようなものだと思うから、社会の中にどの時代にも通じる普遍的なものや法則はおそらく存在しないからこの学問に理論を求めること自体がナンセンスである。理論が存在しないのならそれは学問ではないから別になくてもよいものではないのか?経済学や心理学または法学の分野などで社会を対象にやっているのだから敢えて社会学という分野を創るのは不要にあるように思えた。初心者なので見当はずれのことを言ってるかもしれませんがこれが率直な感想です。
結論がやや月並みだが ★★★★★
 1963年生まれの社会倫理学研究者が、社会学という学問の存在意義を問うた、2009年刊行の本。社会学には現在共通理論と呼べるものが無く、方法論的個人主義に基づく経済学のモデルにも割り切れないものを感じる社会学では、方法論的全体主義の立場をとることが多いが、それにもどの単位を全体と見なすか等の問題がある。むしろ、社会学は人々の間で共有され、コミュニケーションの基盤となっているルール=形式を分析するものと見なし得る。その意味での社会学は、人間社会の秩序を神の意志と切り離した、近世の社会契約論や、社会秩序の形成を人間の意図に求めないヒューム、スミスらの議論を前史として、1900年前後に成立したと見られる。この1900年前後は、素直に近代的理性が信じられたリアリズムの時代から、近代の自意識を問うモダニズム(再帰的近代化)の時代への転換期であり、自己を制約するもの、自らの存立根拠が各領域で鋭く問われた時期である。その背景には、近代化の進展による社会的連帯の解体や神の死、大衆社会化、官僚制化などの、近代の病理の顕在化があり、デュルケムやヴェーバーなど社会学の始祖たちは、社会主義と距離を置き自由主義に踏みとどまりつつ、この問題に対処しようとした。このように社会学は、社会的に共有される意味・形式の可変性・多様性についての学問として、近代の危機の時代に成立したのである。この考え方は、パーソンズの構造機能主義において頂点を迎えるものの、形式の可変性への感受性は予測能力を犠牲にするというコストを伴っていた。結局現在の社会学では、社会変動の一般理論が作られないまま、主として集団的アイデンティティをめぐって、多様な中範囲の理論の構築か、忘れられた可能性を掘り起こす作業や社会的構築主義かが試みられている状況であり、それにはそれなりの根拠があるのだ、と著者は言う。

不可能のための闘い ★★★★☆
本書の筆者は自身のブログで、本書内容については以下のように書いている。

内容について。

「社会学にしか興味がない奴はカエレ!」というコンセプトの教科書、殊更に「社会学の魅力」を言い立てない教科書というのが、まあこの本の売りの一つではある。しかしこれは見かけほどあざといわけでもない。

 第一に、自虐は社会学の伝統芸である。社会学者は社会学の悪口が大好きだ。しかし外部から悪口を言われると怒るのだが。「社会学の社会学」も「再帰的近代化」もまあ、そういうことだろう。

 第二に、社会学プロパーよりむしろ隣接分野に広く目配りするのも、社会学の伝統芸だ。ただこの二十年ほど、もっとも端的にはフーコーとハーバーマスの扱いに顕著だが、社会学者でもない人の業績をいつの間にやらちゃっかり社会学の在庫目録の中に入れて涼しい顔をする、という悪い風潮があるのだが。

 日本においてこの風潮の原点というべきは、おそらくは1980年、若き内田隆三の衝撃のメジャーデビュー論文「構造主義以後の社会学的課題」であろう。この論文こそが内田の代表作であり最高傑作だとぼくは思う。

 内田のこの論文におけるレヴィ=ストロース、フーコー、ボードリヤールに対して、ぼくの教科書の場合はドーキンス、デネット、スペルベルというわけだ。しかしどのみちフーコーは登場するし、モダニズム論においては内田的な議論の影響は隠すべくもない。
(http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090613)


さて、無理を承知で本書をズバッとまとめると、「社会の意味づけが変化する危機的事態を分析する学問」が社会学であり、その危機=理論の変容を扱うという性質ゆえに「社会学の一般理論はあり得ないし、それを求めるのは危険な思想である」。
ここから中範囲の理論とか構造主義とかに行くわけだが、その部分は最後の少し。現代社会学を知りたい人は新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)などを併せて読むといいだろう。
異色の入門書 ★★★★★
大変面白かった。本書は大学の講義形式で3章13講に分割されている。第一章では科学に
おける社会学の位置、科学における理論やモデルの説明。社会学に理論はあるか?社会学
の伝統的なアプローチ手法など。
第二章では社会学の歴史を概説するが、美術や数学など脱線が多い。精神分析批判や自然
選択の解説は社会学の入門書では異例。数学や美術のモダニズムと社会学の興隆を結び付
けるのはこじつけではないだろうか。説得力ある因果関係は何も示されていない。
大きく取り上げられている社会学者はデュルケームとウェーバーのみ。
第三章では近代以降の社会学の思想や社会学の未来について。

本書の特徴は著者の社会学に対する危機意識を反映した幅広い科学分野からの知識の応用だ。
著者は「理論」の重要性について強いこだわりを見せる。これはおそらく分野に一貫した指
針を与えるバックボーン(理論でもモデルでも研究プログラムでも良いだろう)が必要と言
うことではないだろうか。その有望な候補のひとつとして著者はダン・スペルベルの「表象
の疫学」を挙げている。表象の疫学とは概念が人から人へと伝えられるプロセス、およびそ
の内容が文化や社会を作るという概念。たぶんより重要なのは、スペルベルは社会学を認知革命
の影響を受けなかった希有な残念な分野であるとみなしており、社会や文化は人間の脳の産物で
あり、人間の行動を理解するためには脳の認知構造、特に生得的な構造を見なければならないと
主張していることだろう。本書ではそこまで踏み込んでいないが、その影響が見え隠れする。

全体的に言えば入門書としては異色で、著者のスタンスが色濃く反映されているが、初学者を
対象としているからこそ、社会学の現状を冷静に批判的に捉え、様々な分野へ目を向ける事の
(それが言語学の哲学と社会思想への応用で起きたような、うわべだけのものでは意味がない
のだが)重要性を述べた一冊として非常に有益だと思う。