困難に向き合う人のための言葉と祈り
★★★★☆
「物語は、傷口の縁をなぞり、ただその周囲を語ってまわることしかできない。言葉は痛みの生々しさをほのめかすものの、傷はまさに身体のものとしてあり、その屈辱と不安と喪失感を言葉は決してとらえることができない」
表題と同じ「傷を愛せるか」と題されたエセーの冒頭にA.W.フランクの『傷ついた物語の語り手』からのエピグラフが置かれている。この文章を空間的なイメージにふくらませたものが、(トラウマを爆心地ととらえ、その被害者、支援者、研究者などの関係を海に浮かぶカルデラのような孤島モデルを使い整理した)前著『環状島』を構想する上での一つのアイデアの源泉であり、DVや性暴力を受けた被害者のトラウマ治療の現場に立ち続ける著者の実感なのだろう。
著者の幼いお嬢さんが階段から転げ落ちたとき、「どのように落ちていったかをきちんと見ておくことが、その後どのように対処すればいいのかを考えるのにいちばん役立つ」と考え、落ちていく姿を見つめていたという。
複雑な事象を、目を凝らして正確に観察し記述する力、視覚イメージを言語化する能力が優れているからこそ、『環状島』を描き出すことができたのだと思うし、エセーにもその特徴があらわれている。本書のところどころに織り込まれた著者撮影の写真にも、海、空、光、影の空間を切り取る感受性と美的センスが垣間見える。
映画、アート、旅の体験、人の話、さまざまな刺激が熟成し、エセーとして多彩で濃厚で、抒情的な実を結ぶ。その視点を定めているのは『環状島』で医療と研究に携わっているという事実なのだが、等身大で語られているので堅苦しさはない。少女漫画の世界にはまってしまう夢見がちな文学少女のような一面もあれば、まじめな話をしていても、すきあらば笑いをとらないと気が済まないサービス精神も持ち合わせている。もちろん、医師としての科学的素養に基づく寺田虎彦を思わせるエセーは興味深いし、アメリカ留学によって自己変革を遂げた、世界に目を向ける開放性と国際的な人的ネットワークから発想されるアイデアと専門分野に閉じこもらない柔軟な思考は貴重だ。
言葉に言い表せないような深い傷を負った人々に医療者として向き合うとき、爆心地に立ったときと同じように、足がすくみ、目を覆いたくなるだろうと容易に想像がつく。見て見ぬふりをすることも、その場から立ち去ることもできる。だが、「泡盛の瓶」を読むと、著者はトラウマ治療に呼ばれている(あるいは、使命としてトラウマ治療にあたらなければならない)人なのだろうと思う。
困難な仕事に向うとき、「祈り」の力に著者は着目する。「だれかが自分のために祈ってくれるということ」が患者だけでなく治療者をも支えるし、治療にあたっても「幸せになれる」と真剣に願い、言葉にして被害者と共有しあうことで力を得る。「一人で見る夢はただの夢、一緒に見る夢は現実になる」という引用されたオノ・ヨーコの言葉がぴたりとはまる。
では、傷を愛せるか?本書を手に考えると、ピンチにマウンドに立った投手や追い込まれたテニスプレーヤーのような気持になってくる。
傷そのものを愛することは難しい。だが、負傷した人に寄り添い、見守り、愛することはできる。そう祈りながら、がんばれ自分!できるぞ自分!と自らを奮い立たせて、爆心地へ救護に向かう著者の姿を思い浮かべた。