長江古義人と言う名に込められた寓意
★☆☆☆☆
小説の主人公、長江古義人。ちょうこうこぎと。
長江は揚子江,古代文明を生んだ中国の大河。
古義人は,コギト・エルゴ・スム、我思う故に我あり。コギトは我思う。ルネ・デカルトの言葉。
長江古義人「たゆたう,大河のほとりで考える大人(たいじん)」
私は、こういうふうに、名に寓意を込めるのが好きではない。
『ナニワ金融道』の肉欲棒太郎なら,笑えるから良いが。
あの,『キルプの軍団』の時のような,頁をめくるのももどかしいほどの面白い
大江健三郎さんの小説は,どこへ行ってしまったのだろう。
さようなら。大江健三郎さん
不思議な感動と味わいがあります
★★★★★
「取り替え子(チェンジリング)」「憂い顔の童子」からお話は続いています。この3冊は連続した小説ですが、それぞれの本で主題は微妙に異なり、最後のこの本で、作者の希望につながって終了するようです。様々なことについて描かれていますが、主に、生きていくことと死ぬこと、について書かれた本です。一章一章に不思議な味わいがあり、読後には独特の余韻があります。
老境にして衰えず
★★★★☆
主人公の老作家、長江古義人(ちょうこうこぎと)は著明なノーベル賞作家と設定されており、最近の2作品同様、作者の分身であることは明らかである。彼は、幼い頃からの友人で、米国から急に帰国した建築家、椿繁と北軽井沢の別荘地で隣人としての生活を始める。椿のもとには若い男女の共同生活者が合流し、やがて彼らが東京でテロを計画していることが長江の知るところとなる。このため、長江は自らの別荘に軟禁状態におかれる。物語は、この奇妙なテロ計画を縦糸にしながら、9.11事件、三島由紀夫事件、浅間山荘事件などの政治的なできごとや、作家のこれまでの文学活動に関する、会話や回想の形を取った、さまざまな記述を横糸にして進展し、悲劇的な結末に向かう。
物語は精巧に書かれているが、展開に破天荒なサプライズはない。ストーリーで引きつける意図で書かれた作品ではなく、提起されたメッセージはあくまで文学的である。同時に含まれる政治的色彩を帯びたメッセージがどんなインパクトを有するかは見解が分かれよう。しかし、私小説的で教養主義の香りのする作家の語り口から、かってのような難解であまりに抽象的な表現は影をひそめていて、比較的読みやすい言ってもよいほどである。これも作品のテーマの一つである老境にふさわしいものであろうか。また、さまざまな事件や自身を含む何人かの作家と作品について、彼の観想を読みとることができる。この作家に親しんできた読者にとっては興味のつきない一面である。若い読者にとっては、作家の仕事の全体像を現在から過去に向かって鳥瞰するヒントがちりばめられている一冊ではなかろうか。