舞踊と演劇の融合の極致
★★★★★
Franz Lisztの作品をバレエ音楽の指揮・編曲の大家J.Lanchberyが選曲・アレンジした音楽に合わせて、巨匠の1人K.MacMillanが振り付け演出した、20世紀のドラマティックストーリーバレエの傑作。
何とも暗い作品である。普通バレエに期待するロマンティシズムや華麗さからは程遠い世界が、観る者の前で、これでもかと言うほどに展開される。物語は、オーストリア・ハンガリー帝国最後の皇族ハプスブルグ家で起こった悲劇。主人公は、皇太子Rudolfと彼の最後の愛人Vetsera男爵家の令嬢Maryである。
Rudolfを演じるのは、E.Watson。Principalに外国勢が多くなった現在のCovent Gardenに久し振りに登場した英国人のPrincipalである。細身な体型とやや面長で繊細な顔立ちが、Rudolfに相応しい。父・皇帝Franz-Josefの権威に服従しなければならず、家族への愛情を捨てた母・皇后Elisabethに母としての愛情を求め続け、ハンガリーの朋友達の前でも本心を表せない弱い男Rudolf。その反面、尊大に振舞う事も望み、権威側の立場にも自らの身を置きたがるという矛盾を抱えた男Rudolf。そんな彼がVetsera男爵家の令嬢Maryと出会った時から、狂気のような愛欲に溺れていく。愛情の飢餓状態が彼に齎す深い心の病。その苦しみから彼を解放するのが、Maryとの逢瀬なのである。彼女との愛に溺れ、果ては心中にまで至るRudolfの屈折した性格・愛情の飢餓感・深い孤独感と心の病を、Watsonはそれこそ全身・全霊を懸けて、緻密且つ激しく表現し尽くした。一寸した目の動き、何気に手を前で組む仕草、小刻みな肩の震え等でも、彼はRudolfの心理を雄弁に具現化する。勿論、彼はMacMillanの難度の高い複雑な振り付けを、その高度な舞踊技術を駆使して無難に踊りこなしているが、技術を決める事に焦点を合わせていない。その技術を用いて、Rudolfの心理の変遷を精緻に表現する事に彼の目的が在ったと思う。Watsonはこの舞台でRudolfを生き抜いた。
Rudolfと運命を共にしたMaryを演じたのは、名前から察してイタリア出身のPrincipalのM.Galeazzi。同役を16年前(その時のRudolfはI.MukhamedovでそのDVDも在る)に演じたV.Duranteと比べると、身体的条件にやや劣りはするものの、Duranteと同様その身体から放出される表現力のエネルギーの強さは尋常でない。屈折した病んだ男Rudolfを理屈抜きに慕い、彼を懸命に受け止めようとする純粋な愛情を、彼女は抜群のテクニックと肌理の細かい芝居で表現した。彼女もまた完璧にMary Vetseraとして舞台で生きていた。
WatsonとGaleazziは出会いの最初から、抜群のコンビネーションを見せる。MacMillan特有のアクロバティックな振り付けを、何の不安定さも無く、寧ろ余裕すら感じさせて彼等は踊り切る。2幕2場と3幕3場のデュエットはこの公演の最大のハイライトである。実際この2人は(少なくとも舞台上では)本気で愛し合っているんじゃないのかと思う位、激しい愛情と強い絆を、この2人の演技から感じた。
他の出演者、尊大な態度で、皇帝の威厳と権威を誇示しながらも、ハプスブルグ家の将来を案じ、苦悩する姿を見せる皇帝F-JosefのW.Tuckett(F-Josefそっくりの扮装!)、宮廷の仕来りや雰囲気に馴染めず、宮廷外で自由を味わう事に生き甲斐を見出し、家族への愛情を捨てた皇后ElisabethのC.Jourdain、真の目的は描かれてはいないが、何かの策略を持ってRudolfを操ろうとする嘗ての愛人LarishのS.Lamb、Rudolfの忠実な御者であり、悲運な恋人達の最期を見届けるBratfishのS.McRae(余興で見せる彼の軽快な踊りと巧みな足捌きも見ものである)、Rudolfの愛妾の素振りを見せながら、裏で首相Taafeと通じている狡猾なキャバレーのトップダンサーM.CasparのL.Morera等もこの起伏の激しい物語を大いに盛り上げ、公演の質を高めていた。殊に、EpilogueのBratfishの表情が印象的だった。
それから重要な事だが、正確な時代考証に基づいて作られた舞台装置と衣装も、この公演の見所の一つである。 幕が降りた後、独特な余韻が僕の心の中に残った。
この作品はバレエと言うより、Danse classique pasを縦横無尽に駆使した言葉の無い演劇と思う。演劇大国Englandならではの劇場作品の傑作であろう。末永くレパートリーに残されて欲しい作品である。何度も見たくなる作品ではないけれども、時々鑑賞して、人間の哀しさを確認したいと思う。