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日本語で読むということ

価格: ¥1,680
カテゴリ: 単行本
ブランド: 筑摩書房
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「女だてらに」と言われたい ★★★★☆
本書は、著者がこれまであちこちで発表してきたエッセイや評論、講演原稿を集めたものである。『続 明暗』・『私小説』・『本格小説』の著者自身による解説もあれば、若き日のフランス留学時代の思い出もある。加藤周一との思いがけない関係も披露されれば、『続 夢十夜』ともいえる「夢十一夜」にも出逢える。

私が女に生まれてよかったと感じるのは、水村美苗のような大人の女性が書く文章を読むひとときである。きっと男性には、ここまで心楽しく女性の文章を味わえないだろうとの、ささやかな優越感に包まれるのだ。本書でもとりわけ心に残ったのは、収録されている母・水村節子の『高台にある家』の「あとがき」の次の一文である。「『高台にある家』には私の手が入っているが、それは自ら進んでそうしたわけではない。(・・・)母が私の判断を全面的に信頼してくれたのもありがたいことであった。さらには、母が老いた母であり、私の娘ではないのもありがたいことであった。人は、自分の娘の小説に手を入れるわけにはいかないだろう」(p.201-4)

『日本語が亡びるとき』発表後に書かれた次の一文も忘れがたい。「褒められて晴れがましかったが、どこか不満であった。どこが不満なのか、ある日、気がついた。『女だてらに』と誰もいってくれなかったのである。今の時代、口が裂けても言えない台詞なのかもしれない。(・・・)本から解放された秋は、母から初めて永遠に解放された秋となった。母を懐かしいと思える日はまだ遠い。ただ、母なら本を手にして『女だてらに』と言っただろうと思う。今は是が非でも聞きたい台詞である」(p.222) 漱石を正面から論ずる作家の書く、母娘ならでは確執と甘えの入り混じった「女らしい」一文である。
国破れて山河あり。山河はダムで壊された‥。 ★★★★☆
「日本語が亡びるとき」の著者のエッセイ集。
 若い人のものは読まないという著者のその心は、現代の日本語の
汚なさに堪えられない、ということなのであろう。
「加藤周一を悼んで」で、氏のように仏独英の三か国語を操りながら
漢文の素養もある知識人は、もう現れないであろう、と著者はいう。
 つまり漱石、鴎外以来の文士の流れはついに途絶えたのだ。
昔の漱石やら文豪たちの小説で育った少年少女は、チョーとか、食べれない、
とか聞くと生理的に受け入れれない。(おっと、間違い)
受け入れられない。
 ケイタイ小説はまず却下だ。
 言葉は変化していくとしても、壊すのとは違うはず…。
 そんな著者の声が聞こえる。
頭のよい女性知人の話を聞く思い ★★★★★
 水村美苗は寡作ということもファンになった理由だが、今回、日本語で書くということ(以下では、「同時発行書」という)と合わせて2册発行されたことは、ファン泣かせである。どちらを先に読むかに迷うが、「読み書き」という言葉があり、また、水村自身、「読むということから、書くということが生まれる」とよく述べている(どことどこで読んだか覚えていないが、少なくとも同時発行書の「あとがき」にはこの言葉がある)。そこで、『…読むということ』をまず読んだ。本書には、「I 本を読む日々」「II 深まる記憶」「III 私の本、母の本」「IV 人と仕事のめぐりあわせ」の4章に分けて、計56編の随筆が収められている。小説家になるには自己を白日の下にさらす気構えが必要だと、ある作家がいっているとか友人から聞いたように思う。水村はその言葉通り、彼女自身の体験、特に中学生時代に家族と渡米して学校や友人たちになじめず、下校後は家で日本文学に読み耽っていたという体験、をしばしば記している。それで、彼女の生い立ちが手に取るように分かり、頭のよい女性知人の話を聞くかのような思いでページを繰ることが出来る。第 III 章は、内容からいえば同時発行書の方に収めるべきもののようであるが、文の調子からいえば本書に収めるのがよいことが、同時発行書を読むと分かる。 IV 章の初めの2編は評論家・加藤周一への賛辞であり、彼の評論を好み、彼を尊敬して来た私にとっては嬉しい文章である。同時発行書に比べれば、軽く読める楽しい一冊である。
私は日本語を選びとってしまったことによって、世界そのものと切れてしまった心細い気持ちに襲われる ★★★★☆
姉妹編とも言うべき「書くということ」に比べると読みやすいですね。読みやすいと同時に著者のパーソナリティ形成の原型とそして歴史的な軌跡の秘密がさりげなく開陳されている稀有な作品ですね。「ここまで書いていいのかしら」、そして「やっぱりね」という下種の勘繰りを見事に満たしてくれる作品でもあります。かなり正直に自分の過去のprejuidiceをさらけ出しているので、読者は著者の複雑で厳しいこれまでの特に若い時代の経験を追体験することができるのです。そこにはおそらく日本人の手では書かれることはないであろうcruelなessay「子供の未来」も含まれます。ところが一方では、「美姉妹」や「寅さん」という見事な「失われた世界」へのhomageという作品もあります。といってもこの経験も歴史的な拘束を帯びているわけで、今の人たちにはリアリティが欠落している印象を与えるかもしれません。フェミニズム、アメリカでの孤独感、自分の有り得たかも(could have been)しれないalternative lifeへの悔恨、全てが「日本語が亡びるとき」につながっているんですよね。そして祖母や母との断絶することのできない関わりを描写する部分は、歴史的な継続(continuum)の中での日本人としての著者が浮かび上がる部分でもあります。最後の旧制高校世代の巨人を扱った最後の数章の部分は、ちょっと違和感があった部分です。最後の旧制高校世代は、1925年生まれではなく1930年(飛び級も入れれば1931年)生まれです。そしてこの世代の限界については取り上げられないようです。