問題とは大きくわけて二つ。
(1)世界規模の歴史観・イデオロギーの時代は終焉したのであり、その時代が我々の残したものといえば、「私欲肯定社会」とその敗者たる「私欲否定=ファシズム社会」の対立構造にすぎない。しかも後者は現代に至って(北朝鮮に典型をみるような)宗教ファシズムという矯激な形態をとりつつあるのである。
(2)東アジア人は、この地域に「中華思想」(自国中心主義のこと。中国の思想ではないよ!)が張り巡らされているという現実を正しく認識してこなかった。中国や朝鮮にはそもそも「東アジア」という概念すら無いし、日本には「アジア主義」があったといっても、それとて国内の「中華思想」及び「欧化主義」との葛藤を克服できずに終わる不毛なものにすぎなかった。
そこで著者は提言する。まず今後の社会科学の望ましいパラダイムは、地域研究を充実させていくという方向に見出されるべきである。そして東アジアの地域研究は、この地域が「中華思想共有圏」である(にすぎない)という悲しい現実をしかと見据えることから始めなければならない。求められるのは「ナショナリズム」の克服ではなく、「中華思想」という名の「東アジア・イデオロギー」の克服なのである。
問題とは大きくわけて二つ。
第一に、世界規模の歴史観・イデオロギーの時代は終焉したのであり、その時代が我々の残したものといえば、「私欲肯定社会」とその敗者たる「私欲否定=ファシズム社会」の対立構造にすぎない。しかも後者は現代に至って(北朝鮮に典型をみるような)宗教ファシズムという矯激な形態をとりつつあるのである。
そして第二に、東アジアの人々は、この地域に「中華思想」(自国中心主義)が張り巡らされているという現実を正しく認識してこなかった。中国や朝鮮にはそもそも「東アジア」という概念すら無いし、日本には「アジア主義」があったといっても、それとて国内の「中華思想」及び「欧化主義」との葛藤を克服できずに終わる不毛なものにすぎなかった。
そこで著者は提言する。まず今後の社会科学の望ましいパラダイムは、地域研究を充実させていくという方向に見出されるべきである。そして東アジアの地域研究は、この地域が「中華思想共有圏」である(にすぎない)という悲しい現実をしかと見据えることから始めなければならない。求められるのは「ナショナリズム」の克服ではなく、「中華思想」という名の「東アジア・イデオロギー」の克服なのである。
ついで読むべきは第六章、北朝鮮の「首領様」尊崇の思想は、戦時中日本で学んだ黄長燁が天皇に関する理論を密輸入したのではないかという仮説である。
儒教批判の書でもあって、「西洋人が考えたことは儒教の中にある」という発想が、中華思想にほかならないことも述べているから、既に本書に評価を与えている呉智英などは、いずれ本格的に本書に答えなければならないだろう。
だが、それ以外の部分は、重複が多すぎる。金大中の演説など、同じ文章が三回も引用されている。雑誌発表のものをそのまま並べたからである。編集によって削るべきものだろう。
また55p、日本は儒教の礼制を採用しなかったから、東アジアの視点からは儒教国家とはいえない、とあって、それはいいのだが、「徳川幕府が「儒教」を体制教学として採用しなかった」という部分は、渡辺浩「近世日本社会と宋学」の誤読であって、渡辺は、「寛政異学の禁以前」、「朱子学」が体制の学として採用された事実はないと言っているだけだ。四書を中心とする儒学が、徳川期武士の倫理規範であったことは、否定できない。