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東アジア・イデオロギーを超えて

価格: ¥2,520
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新書館
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真摯な地域研究 ★★★★☆
著者の反日トライアングルを読んだ方にはこの著作もお勧めです。なぜ東アジアというこの地域で”歴史認識の共有”なる”政治的”なプロジェクトが発生するのか、そして日本で”東アジア共同体”なる異形の幻想(113ページ)が生み出されるのかが、いくつもの大きな論点の呈示と整理とともに解明されています。内発発展型中華思想のグロテスクな現象がそれぞれ対立しあう、思想のバルカン半島こそこの東アジア地域というわけです。また第三章の”世界史の終焉と宗教ファシズムの冒険”は、冷戦後の全体主義は宗教ファシズムの様相を呈するという、著者には珍しいグランドデザインの呈示がなされています。最後の、”東アジアに内在するもの”は、著者の心象風景の一部を垣間見せてくれます。
「読売・吉野作造賞」受賞作 ★★★★★
 大幅に加筆修正しているとはいえ著者の「論文集」なので、全体としての趣旨が見えやすいわけではない。しかし部分的な(章ごとの)論点のみに着目していては、論壇賞を受けるだけの本書の重みは理解できないだろう。本書は、現在に至るまで「東アジア政治」及び「東アジア論」がいかに不毛であったかを分析し、そしてその不毛さを克服する方向を示すための本である。つまり「東アジア」について考えるにあたっての、総論的かつ根本的な問題意識を提供してくれているわけだ。

 問題とは大きくわけて二つ。
(1)世界規模の歴史観・イデオロギーの時代は終焉したのであり、その時代が我々の残したものといえば、「私欲肯定社会」とその敗者たる「私欲否定=ファシズム社会」の対立構造にすぎない。しかも後者は現代に至って(北朝鮮に典型をみるような)宗教ファシズムという矯激な形態をとりつつあるのである。
(2)東アジア人は、この地域に「中華思想」(自国中心主義のこと。中国の思想ではないよ!)が張り巡らされているという現実を正しく認識してこなかった。中国や朝鮮にはそもそも「東アジア」という概念すら無いし、日本には「アジア主義」があったといっても、それとて国内の「中華思想」及び「欧化主義」との葛藤を克服できずに終わる不毛なものにすぎなかった。

 そこで著者は提言する。まず今後の社会科学の望ましいパラダイムは、地域研究を充実させていくという方向に見出されるべきである。そして東アジアの地域研究は、この地域が「中華思想共有圏」である(にすぎない)という悲しい現実をしかと見据えることから始めなければならない。求められるのは「ナショナリズム」の克服ではなく、「中華思想」という名の「東アジア・イデオロギー」の克服なのである。

「読売・吉野作造賞」受賞作! ★★★★★
 大幅に加筆修正しているとはいえ著者の「論文集」なので、全体としての趣旨が見えやすいわけではない。しかし、中華思想(中国だけの思想ではないよ!)形成の実証や北朝鮮の宗教カルト化の分析など部分的な論点のみに着目していては、論壇賞を受けるだけの本書の重みは理解できないだろう。
 本書は、現在に至るまで「東アジア政治」及び「東アジア論」がいかに不毛であったかを分析し、そしてその不毛さを克服する方向を示すための本である。つまり「東アジア」について考えるにあたっての、かなり根本的な問題意識を提供してくれているわけだ。

 問題とは大きくわけて二つ。
 第一に、世界規模の歴史観・イデオロギーの時代は終焉したのであり、その時代が我々の残したものといえば、「私欲肯定社会」とその敗者たる「私欲否定=ファシズム社会」の対立構造にすぎない。しかも後者は現代に至って(北朝鮮に典型をみるような)宗教ファシズムという矯激な形態をとりつつあるのである。
 そして第二に、東アジアの人々は、この地域に「中華思想」(自国中心主義)が張り巡らされているという現実を正しく認識してこなかった。中国や朝鮮にはそもそも「東アジア」という概念すら無いし、日本には「アジア主義」があったといっても、それとて国内の「中華思想」及び「欧化主義」との葛藤を克服できずに終わる不毛なものにすぎなかった。

 そこで著者は提言する。まず今後の社会科学の望ましいパラダイムは、地域研究を充実させていくという方向に見出されるべきである。そして東アジアの地域研究は、この地域が「中華思想共有圏」である(にすぎない)という悲しい現実をしかと見据えることから始めなければならない。求められるのは「ナショナリズム」の克服ではなく、「中華思想」という名の「東アジア・イデオロギー」の克服なのである。

面白いが・・・ ★★★☆☆
本書で最も面白いのは第一章である。東アジアの「連帯」を妨げているのは、「中華思想」の分有、つまり大陸本土のみならず、朝鮮、ベトナム、日本がそれぞれ、自国を尊しとし周辺諸国を夷狄と見なす中華思想に陥ってきたというのだ。これを克服しなければ「アジア主義」など迷妄に過ぎないと著者は言う。

ついで読むべきは第六章、北朝鮮の「首領様」尊崇の思想は、戦時中日本で学んだ黄長燁が天皇に関する理論を密輸入したのではないかという仮説である。

儒教批判の書でもあって、「西洋人が考えたことは儒教の中にある」という発想が、中華思想にほかならないことも述べているから、既に本書に評価を与えている呉智英などは、いずれ本格的に本書に答えなければならないだろう。

だが、それ以外の部分は、重複が多すぎる。金大中の演説など、同じ文章が三回も引用されている。雑誌発表のものをそのまま並べたからである。編集によって削るべきものだろう。

また55p、日本は儒教の礼制を採用しなかったから、東アジアの視点からは儒教国家とはいえない、とあって、それはいいのだが、「徳川幕府が「儒教」を体制教学として採用しなかった」という部分は、渡辺浩「近世日本社会と宋学」の誤読であって、渡辺は、「寛政異学の禁以前」、「朱子学」が体制の学として採用された事実はないと言っているだけだ。四書を中心とする儒学が、徳川期武士の倫理規範であったことは、否定できない。