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網野善彦を継ぐ。

価格: ¥1,260
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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すぐ読めて面白かった。 ★★★★★
中沢さんの本をたくさん読んで、「僕の叔父さん、網野善彦」を読んで、この本を読みました。表題のとおり、大変面白かったです。学問内容はもちろんアカデミック界のいろんな「常識」と対処・格闘していく網野先生、著者のお二人を含めた関係・状況、そして学問の中身を知るとタイトル「網野善彦を継ぐ」の重みがわかってくる気がしました。この本を読んでから、いままで読んでいなかった赤坂さんの本を読みたくなりました。
印象的な部分。網野さんは昔から秀才はだめだと言っていた。自分に対して便利な言葉を使い続けていると自分が鍛えられない気がした。網野さんは実証的歴史学を背負って、それでしたたか傷ついた。「蒙古襲来」には歴史家の名前は出てこないが、柳田国男や折口信夫・・・といった名前はいたるところに出てくる。網野さんがやり残した仕事のひとつは、日本と朝鮮半島との比較研究。網野さんの思想体質はルソーと似ている。定住と漂泊の同時性。Xという権威を必要としない東北・・国家に抗する社会としての精神史を持つ東北。山梨県人のふとどきさと東北人の敬虔さは表層は対極に見えるが、とても近い。差別をめぐるタブーの西、東の違い。手付かずのジャングルなんていうものは幻想。これから「自由の歴史」を考えたい。など。
網野善彦へのよき入門書 ★★★★☆

「百姓=農民ではなかった」と強調した網野善彦。江戸時代の農民人口8割への疑問と、自分の生まれ育った家や地域に対する謎が解けた言説であったのだが、その網野善彦の格好の入門書だと思う。網野善彦に直接教わったことはないが、その弟子だということを明らかにして認める元在野の学者、東北学の始祖でもある赤坂憲雄。宗教学者の肩書きを超えて、現代思想の英知をもってサブカル的に独自のアカデミズムを切り開き、網野善彦の甥でもある中沢新一。網野善彦亡き後、彼の切り開いた日本の歴史学をどのように継承、または絶やさず発展させえるかのかの意味多きマニフェストである。

日本が稲作国家であったというそれまでの歴史の観点、いいかえれば都市と農村という二元論を、縄文時代にまで遡らずとも、「定住」と「漂泊」という二元論から均等に見据えれば、「農民」と「移動する民」という中心/周辺という対立構図さえ、私たちが教科書で学んできたようなそれまでの歴史学が作りあげたものとして見えてくる。それは、網野善彦が当時の日本史学会に身一つで申し立てをし、中沢新一・赤坂憲雄両氏がそれぞれに現在の歴史民俗学ないしはアカデミズムへ申し立てしている、その構図ともよく似ている。

「歴史は自分が語りたかったことを語り損なう」というフロイト的言説を、記録されなかった歴史の中にうごめく「えたいの知れない力」の正体を、周辺論としてでなく説いていくのが民俗学の役割。どうしても赤坂憲雄の方に傾いてしまうのですが。
定住者の視点と漂泊者の視点 ★★★★★
中沢さんと「東北学」提唱者の赤坂さんの対談を通して網野史学の重要性を語りあっている。
中沢さんの叔父さんである網野さんの歴史学、民俗学から見た日本人の姿を定住者としての農村からの視点でなく、漂白する、あるいは移動する民としての視点から考察する必要性と必然性を継続していかなければいけないと言う論点なのだと思う。まったくの素人が読んだ感想なのであるが、目的物を見る位置により導き出される答えや推論が違ってくるという重要な点は非常に勉強になった。歴史教科書や参考書に書かれている事を鵜呑みにする危険性を教えてくれた。
中沢氏の発言
「定住という考え方自体が、定住している人の心の深層に達していないんだと、ぼくは感じます。いわゆる日本の風景をつくっている「里山」とよばれているものをよく研究してみるとわかってくるんですけれども、けっして定住的な意識ではないんですね。里山自体はある限られた動かない空間につくられたような世界ですけれども、その内部に入っていくと、それはいつも動いて変化しているんでね。どうしてあの風景が美しいかと言うと、人間が自分の定住的な原理を自然に押しつけなかったということだと思います。定住の原理というのは、いつも中心の自分とその外部というものをつくりだして、中心部にある原理をその外側に拡大していこうするわけですけれども、里山ではそれをしていないんですね。自然の側の力を圧倒的に受け入れているんですね。これは虫や水や鳥や植物・・・・・というかたちで人間に世界にせまってくる力と、人間が自分の原理を自然に及ぼしていこうとする意思とが、境界面上でぶつかっていますけれども、そこにひじょうに面白い光景が出てくるんですね。境界をつくったり、差別をつくったりしていくというふうな、そういうことはじっさい起こっていないんですね。境界なんてないいですよ。差別も起こっていない。どういうことをやっているかと言うと、自然の方から、動物、水、植物から要求が来て、それに対して人間の側の要求があって、その要求と要求がぶつかり合って、そこでネゴシエーションがおこなわれています」
イメージで考えてみよう。 ★★★★☆
 表紙カバーの地図も最初に見たときは、視座の転換によりこうも発想は変化するのかともおもったが、しかしよく見ると、これは中国大陸を中心とする地図であり、沿海州、朝鮮半島と円弧をなす諸島国家が見えてくる。この視点で日本を見ると、やはり「日出ずる国」になるが、網野氏はその視点を一度変更してはと提案したことが、パラドックス的である。
 なぜ、これほどイメージが変化するのかと考えたが、これはゲシュタルト変換だと気がついた。空間の中で内側に曲がった線が取り囲む場合,完全に取り囲まれていなくても,内側ないし凸面になる領域が図になりやすい。そのため、通常日本列島を隔て、保護していると思われる日本海が逆に大陸との一体性を醸し出すのだ。フロイトも対話の中に出てきたが、心理学も参加できる地政歴史学という学問の成立の余地もありそうである。
論じられる人が論じる人に似てしまうこと ★★★★☆
 中沢・赤坂によれば、網野善彦にとっての歴史とは、記録されそこなった歴史、語られそこなった歴史なのだという。史料の背後にうごめいている「欲望」をこそ、網野は再現したかったのだと。中沢はそのことを、「フロイト的」と表現している。
 もうひとつ著者たちが強調しているのは、網野が「移動」を重視したという点。柳田國男的に定住者の視点から語るのではなく、また山口昌男(または宮田登)的に中心(定住)/周縁(移動)の対立構図によって見るのでさえないのだという。ただし中沢が定住と移動の同時生成を強調するのに対し、赤坂が東北の調査などの実感から、すべてを移動の相の下に見ようとしているのは、二人の間で微妙なズレもあるように思う。しかしいずれにせよ、「移動」の強調は対話中でも言及されているドゥルーズを想起させる。
 こういう類似を、どう考えたらいいのだろう。中沢・赤坂が網野の中から、そういう側面だけを取り出したから、そう見えるのか。網野自身、中沢らとの交流を通じて何らかの影響を受けたのか。それとも網野という歴史家が、まさにそのような歴史家であり、だからこそ中沢・赤坂がそれに触発されているのか。
 かつてドゥルーズがフーコー論を書いたとき、そこに描かれたフーコーがあまりにドゥルーズ的だという評価があった。私には、この本で描かれた網野が、あまりにも中沢・赤坂的であり、さらにはフランス現代思想に似ていると思える。
 ただし、だからといってつまらない本だというのではない。