五体不満足
★★★☆☆
本書において筆者が訴えることのひとつ、それは例えば「障害者」――現代的には
この表記法はまずいのかもしれないが、ここではあくまで筆者に従う――である前に
ひとりの「人間」として「人間」であるがゆえにその尊厳を見出されねばならない、
ということ。
しかし同時に、人にはそれぞれの立ち位置においてしか見えない風景、
理解し難い風景が横たわる。
確かに、本書における氏の言説にはいくつかイラっとさせられるところも
あったし、こうも高飛車で喧嘩腰に出られては反発を誘うばかりで
対話どころではないではないか、とも思う。
ではあるが、あえてこれほどまでにエキセントリックな口調を用いるからこそ
伝わる部分、あるいはある種の戦術として、そうでもしなければ伝わらない部分と
いうものがあるのもまた事実には違いない。
そしてそれゆえにこそ、「健全者」の側に見えている当たり前の風景の虚を
突かれる。
「殺す側」は決まってこう言う。
障害を抱えたまま生きていくくらいなら、いっそ殺された方が幸せだ、と。
あるいはそうなのかもしれない。
しかし、彼ら「殺される側」にそうした生きづらさを強いているのは誰か。
誰が彼らの生を黙殺するのか。
その理由は一概に「障害」へと帰されるべきなのか。
古色蒼然たるいかにも左翼的な主張の傍ら、なぜそう思うのか、それを
どうやって実現するのか、という緻密な論理立ての前に、まず自分はこう思う、
こう感じる、こうしたい、という「殺される側」の感情を生々しく閉じ込めた一冊。
障害を語る前に読め
★★★★☆
青い芝は、再評価されて然るべきだろう。
障害に関わる人の中には、当事者ですら、その過激な言動や強烈な主張の表層を捉えて、評価しない傾向があったが、改めて彼らの主張を聞いてみれば、その問いかけは痛烈である。
ただ、さよならCPのシナリオの中に、青い芝のメンバーの一人が未成年当時のレイプ経験を吐露する場面があり、非常に抵抗を覚える。
20世紀の名著、復刊なる
★★★★★
介護に疲れて老親と心中。障害のある子どもの行く末を悲観して殺害。
このような事件があるたびに、「母よ!殺すな」を読みたくて仕方なかった。
障害者の権利獲得運動の歴史を扱う本や論文にはたいてい書名が紹介されているが、長らく絶版となっており、タイトルと、書かれた時代背景しかわからなかったのだ。ちなみに、本書の表題は、1970年5月横浜で発生した「障害児殺害事件」と、それに伴う「市井の善意の人」の減刑嘆願署名運動に対し、「殺される側」から異議申し立てをした運動に依っている。
本書は、脳性マヒの横塚晃一氏(故人)が、障害者運動の勃興期である1970年代に、「日本脳性マヒ者協会 青い芝」の機関誌などに寄稿したものを集めたものである。
意外なほど読みやすい、というのが偽らざる感想で、もっとアジテーション的な内容を予期していたのが心地よく裏切られた感がある。
ここに描かれた内容は、30年以上前のことだが、「子殺し」や「就労」「差別」など、現在もなお同様の問題がある。そして障害者が社会から隔離されることが当たり前だった時代だからこそなされた思索が、むしろ現在ではなされていないのではないかと思えることが気掛かりである。障害者に対して皆がフレンドリーで、それでいながらその異議申し立ての力を狡猾に削いでいる「バリアフリー社会」が広がり始めていないだろうか。もう一度、原点に返る必要性を感じる。
「この本は、この本がいらなくなるまで、読まれるだろう。そしてその時はこないだろう。しかしそれを悲観することはない。争いは続く。それは疲れることだが、悪いことではない。そのことを横塚はこの本で示している」。
立命館大学の立岩真也氏は本書の解説をこう締めくくっている。
復刊を望んでいた
★★★★★
名著がやっと復刊された。
「青い芝の会」は障害者自立運動のさきがけとなった団体である。
その中心的存在として活動した横塚の考えに対し、彼の尖鋭的な言葉
のみ取り上げ、その背景のことなど考えなしに言葉どおりの解釈でもって
批判している人間もいる。だが本書を読めば納得するであろう。
横塚の発言はいまも変わらず衝撃的で攻撃的である。
「泣きながらも親不孝を詫びながらも」自らのために闘わなければ
ならない生が、いまなお厳然としてあるのだ。
本書への強い思い入れが伝わってくる立岩の解説も必読。
立岩だけではない。出版社も読者もまた、本書の刊行を強く待ち望んで
いたに違いない。