こういう作品があることを、大切にしたいと思う。
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前作「カジムヌガタイ」で、太平洋戦争終結前後の沖縄を舞台に、米軍と日本軍との沖縄の人々に対する暴力を描いた(?)比嘉慂が、同じ太平洋戦争前後の沖縄を舞台に、ウチナーンチュ(沖縄人)の精神世界や魂のあり方に、より深く切り込んだ傑作集。
4つの物語はいずれも(時間軸を前後しながら)、沖縄本島付近(?)の離島でノロ(神女・巫女)を務める祖母を持つ「海里カマル」という少女を、“狂言回し”として登場させている。(そしてこの「海里カマル」こそは、おそらく、作者・比嘉慂の分身である。)
「カジムヌガタイ」では、外部からやって来て一方的にウチナーンチュを蹂躙するものとして描かれた“ヤマト”や“ヤマトゥーンチュ”だったが、今回の作品集では、前回と同様、傲岸な支配者としての横顔を随所に見せながらもそれだけには留まらず、むしろ同じウチナーンチュ同士の世界では(それが当たり前であるがゆえに)見落としがちになる、ウチナーンチュの内部・精神世界の深奥を照射する“鏡”の役割を果たしている。“ヤマトゥーンチュ”という「外部」が存在することによって却って、ウチナーンチュの心の奥底に受け継がれて来た精神世界の美が、輪郭も鮮やかに浮かび上がるのである。
文学性は明らかに、大きく、深まっている。
冒頭に収められた作品・『風葬』のラストのページで、主人公(?)の少女・カマルは、かつて自分が曽祖母の“マブイ”(魂)と遊んだ経験があることを、祖母や母から聞かされる。そして彼女は、自分自身では既にそのことを忘れてしまっているにも関わらず、「ヒーオバーのマブイと遊んだこと大切にしたいと思う。」と言う。
それは単にカマル個人の感情の表出ではなく、むしろ、かつての文化的伝統を次々と、自ら捨て去って行こうとしている現在の沖縄に向けて、作者・比嘉慂が投げかけた、挑戦的な宣言だったのではないか。
ヤマトゥーンチュの私たちはもちろん、現在のウチナーンチュの皆さんにも、是非、“自らの物語”として、読んでもらいたい一冊である。