解毒の必要
★☆☆☆☆
亀山郁夫は「私のドストエフスキー理解は一貫している。それは、書かれたテクストを絶対化しない、テクストには二重構造があるという信念である」(『共苦する力』261頁)と記している。テクストが絶対でなければ、絶対なのは自分であるということになり、恣意的妄想的な訳文が生ずることとなった。
『カラマーゾフ』のエピローグでのコーリャ少年の「僕は全人類のために死にたいんです」という言葉を引き取って、アレクセイはこれを訂正し「先ほどコーリャ君は「すべての人々のために苦しみたい」と叫びましたが」と言い変えた。ここにはこの大小説の根本思想が表現されており、諸既訳は正しく原文どうりに訳していた。ところが亀山はこれに逆らい「人類全体のために死ねたら」とそのまま引き取った。これは誤った傲慢に起因する致命的かつ犯罪的な誤謬である。
「読みやすい」と評されるその訳文には、またそれに基づく解説本にはこうした毒が行き渡っている。人は亀山書によってはけして真実のドストエフスキーには到達せず、落命の危険も無しとはしない。すべからく急ぎ http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20080619 によって解毒の処置を講ずるべきであろう。
これと『罪と罰』、抱き合わせでいかが?
★★★★★
『罪と罰』を読み終えたとき、実は物足りなかった。もっと長く、もっと濃いものだと思っていたのだが、要はこちらの読む力も足りなかったということだったようだ。本書を読んでやっと『罪と罰』を読み終えたようなスッキリした気分にさせられた。
面白かったのが、小説の出来上がる背景(歴史的、土地柄、ドストエフスキー自身)を詳細に解説してくれているところ、「神の不在」と極限の孤独、7という数字へのこだわり、父殺しのみならず、「母殺し」である説も浮上、ソーニャの聖書の朗読の意味と、これが繋げる3人、ラスコーリニコフとソーニャの部屋から連想する「死」、フーリエ主義の影響、スヴィドリガイロフの自殺の意味、などこれまでの研究で解明されている説と著者自身の考えを多角的に論じているので、内容が深い、でも素人にもわかりやすく解説してくれているので、非常に面白い。
結局、「ドストエフスキーの(神への)不信を共有するか、あるいは信仰を共有するかで、『罪と罰』の読みは、根本から異なったものとなる」らしい。
間違い、不正確な情報が多い
★☆☆☆☆
本書、冒頭部に掲載されている『罪と罰』の舞台、センナヤ広場付近の地図には重大な誤りがある。
ソーニャの家は見当違いの場所にあるし、ラスコーリニコフの家の位置も、その角地の位置関係も正しくない。再三訪れている私は確言できる。この間違いは江川卓『謎解き『罪と罰』』(新潮選書)に発し、亀山新訳、本書と継承されて、多くの読者を惑わすことになるだろう。案内図としては役にたたない。
次に叙述に見逃せない不正確さ、重大な間違いが散見される。スペースの関係でその2、3にとどめる。107頁に、「ザメートフの原型であるバカービンとリザベータが「できていた」事実」云々の叙述があるが、これは完全な間違いで、創作ノートで「バカービン」として構想されていた人物はラスコーリニコフを往診する医者のゾシーモフのことである。これに気付かない著者は三田誠広との対談:
http://canpan.info/open/news/0000004162/news_detail.htmlで、バカービン=ザメートフ説を得々と語るのである。そのほか、物語進行の時間、日程に関しても江川説とロシア研究者の説をごっちゃに取り入れているために、途中で日付が飛ぶなど、混乱が見られる。
またロシア文化史にかかわる次のような叙述も問題である。
119頁「『罪と罰』はペテルブルグ対分離派の構図をとっている。そもそもペテルブルグの建設にあたっては、分離派の人々を強制労働にあたらせ、多くの犠牲者を生んだ」。ピョートル一世の強権政策による首都建設において、分離派教徒が殊更に犠牲にされたという印象を与える記述ははなはだ疑わしい。
126頁「ミコールカは分離派のなかでも「無僧派」と呼ばれる過激な宗派に属していた」。「無僧派」にはそれこそ無数のセクトがあるが、一般に政治的な意味では過激ではない。「鞭身派」、「去勢派」を念頭に置いて、倫理的な意味で過激(禁欲→乱交、去勢)というのなら、ミコールカの属していた「逃亡派」(政府権力への服従を拒否して、森に隠棲したり、放浪して回る一派)がどのような意味で「過激なのか」、説明抜きの、思わせぶりな、不正確な情報である。
この本の内臓する問題、欠陥を詳しく知りたい人は次のURLにアクセスすることをお薦めする。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost133.htm
目からうろこが落ちること請け合い
★★★★★
「罪と罰」を読むのは光文社の古典新訳文庫で3回目である。ラスコリーニコフと同期する事のできる高校生と大学生の頃に読んで以来である。亀山先生も言っているように、年齢のせいか「罪と罰」のリアリティに同期化することが難しくなってきた。しかし人間関係等々の種々の経験を積んでいるので、「読み」は深くなる。
本書で、亀山先生は各章の言葉の一言一言が何を意味しているのか詳しく解説している。亀山先生の特徴として、ロシア語の語源にまでさかのぼって、その言葉が持つ意味を追求するという方法をよくとられるが、これがなかなか興味深い。
光文社古典新訳文庫の「罪と罰」に掲載されている「読書ガイド」と重複する部分もあるが、これをより詳しく解説したものといってよい。ロシア語原著では、貸金業のアリョーナの義理の妹で、運悪くラスコーリニコフに殺されてしまうリザヴェータが妊娠していたという事実を明らかにしている「版」もあるようで、そうなると彼は3人の命を奪った事になるのだ。そのほか、謎が謎を呼ぶ細かいプロットの連続、これらがどういうふうに組み合わさっているのか。単なるラスコーリニコフとソーニャの恋物語だけでなく、多彩な脇役はどういう意味合いがあるのか、なぜ登場する必然性があるのか。1865年当時のロシア社会の歴史的は背景、社会思想等々をふまえ、この世界文学の名作を読み解いてゆく好著である。
悪くない
★★★★★
亀山氏らしい独創的な切り込みが随所に見られる『罪と罰』論。江川卓の名著の発展形をなしている。章立てが非常に凝っていて好感がもてた。とくに印象的なのは、『罪と罰』における自伝的な意味を追求したところだろう。これでもって、ラスコーリニコフの金貸し老婆殺しが、けっして「シラミ」殺害ではなく、皇帝暗殺を念頭に置いていたという意味が明らかになった。また、この小説の「母殺し」の意味を具体的に明らかにしたところなども、かなりの説得力をもって迫ってくる。誤植が1、2あるのが惜しいが、『罪と罰』の読みを根本から変えている。「意志の書」と「運命の書」としての二重性の探究は、これまでに見られなかったものだ。ともかく面白い。『罪と罰』全巻刊行時にはきっと話題が集まるだろう。しかし、亀山氏のドストエフスキーはどこまで行くのか。