江戸期における最高の幕臣の物語―「官僚の鑑」としての川路聖謨
★★★★☆
幕末の最も困難重大な時期に、出自のいかんを超えてあれだけの人材を枢要の部署に配置し、その能力を存分に発揮させえたことは、そして日本の独立を堅持し、近代国家形成の礎を築いたことは、徳川幕府の、そして武士社会の深く名誉とするところなのである―笠谷和比古『武士道と日本型能力主義』(05年,新潮選書)p.195
笠谷和比古・国際日本文化研究センター教授の上述の言葉を裏付ける象徴的な人物が、本書で描出されている幕臣・川路聖謨(かわじとしあきら,1801‾1868)である。川路は、「明治」の跫音迫る慶応4年、勝海舟と西郷隆盛の会談による江戸城無血開城の報を聞きつつ、短銃にて自裁した。自己を厳しく律し、出処進退を弁えながら、幕末期の困難極まりない外交交渉等を取り仕切った廉直な幕臣としての川路の生き様は、まさしく「官僚の鑑」であるとともに、危機に直面した時代にこそ、「人ノ食ヲ食セシ」官僚はその真価を問われる。
さて、川路は謹厳実直を絵に描いたような「堅物」の旗本ではなかった。1853‾54年、日本との通商交渉等に当たっていたロシアのプチャーチン提督の傍らにいた作家・ゴンチャロフは、『日本渡航記』の中でこう川路を激賞している―川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでもが、すべて常識と、ウィットと、烱敏と、練達を示していた、と(本書p.266)。
確かに、川路は前出のごとくウィットのセンスなどにも優れていた。だが、先ずもって彼は、「矩を外すのを憚る」、「分を守る官僚」(同p.220)であった。そして、「どんなに難しい仕事でも、逃げも投げだしもせず、根気よく、真っ正面から取り組んだ」(同p.312)人間であり、また、“国益"を考えた有能なタフ・ネゴシエーターだった。最後に、交渉相手のプチャーチンは語っている―ことに川路は、その鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパのいかなる社交界にだしても一流の人物たりうるであろう…(同p.328)。