言語という「思想」への批判
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没政治的、没交通的な言語学者(とかく評価の高いチョムスキーも含まれる)とは違い、徹底的に社会的な機能として言語を見ようとするカルヴェの著作は、それこそ<世界共和国>への視線をもっている。
たとえば地域通貨への可能性を過大視する前に考えるべきは、まさに言語の問題ではないか。「英語は世界語」だとか「ビジネス共通語」だとかの強者の論理への対抗運動は、言語交通の場で考えなければなるまい。
国家による言語政策の問題は、端的に「教育基本法改正」「憲法改正」にも現れている。日本の言語教育に決定的に欠けているのが、言語の政治学、政治としての言語の視線だ。
「政治とは何か」とは、「思想とは何か」という問いに酷似する。
いや、ほとんど同じものだ。
佐藤優が、魚住昭との共著『ナショナリズムという迷宮』で明快に述べている通り、「思想」とはその存在を普通疑いもなく肯定しているもののことである。したがって、一般的に「思想」として扱われているものは、いずれも「対抗思想」であり、疑われていないもの(=思想)への異議申し立てという構成をとっている。
よって、「思想」の本来の意味からすると、それは無自覚な絶対肯定としてあり、流布的な意味(実は対抗思想)からすると、それは「批判」としてしかあり得ないのである。批判とは「思想」の無自覚な存在を暴き立てることの謂いである。「言語とは何か」という問いも同様の構成となる。
今後、佐藤の定義に則り、「思想」を「批判」として自覚化(対抗思想に晒す)せねばならない。その代表的な論考であり、われわれの自然的な無意識を相対化するのが、本書『超言語』なのである。
通俗的に言挙げされる「価値自由」とか「純粋科学」などという物言いは、呪われてあれ!
かと言って、学問の道具主義を排せよ! 政治的でない学問や言語などない。それは一言で言えば、人間とともにあり、人間のためにあるということだ。