日本基督教団のレズ牧師
★☆☆☆☆
日本基督教団の成立そのものから難点があるが、現在この教団にはレズビアン、ゲイ、性転換者という三種類の「性的少数者」(セクシュアル・マイノリティ)の牧師が揃っている。世界最初の事例である。これは、リベラル派のエキュメニカル運動の行き着く先を、よく現しているだろう。
日本基督教団を知りたい人におすすめの一冊である。
レズビアン・スタディーズの一押し本
★★★★★
「レズビアン」という存在をこれほど深く掘り下げ、真正面から考察した本はたぶん日本で初めてだろう。
第一部の1節「プライド “自分らしく”あること」を読んだだけで、著者の頭のよさがわかる。書き分けのまぎらわしい「性的志向」と「性的指向」との違いについて、「性的指向は、自分の意志では変えることのできないもの」と説明し、「異性愛主義という枠組みからみた同性愛、男性中心主義という枠組みからみた女性。その二つが交差したところにレズビアンは存在する」とレズビアンを定義する。フェミニズムやレズビアン/ゲイ・スタディーズから学んだ成果も満載。鋭い指摘の連続にページごとに線を引かずにはいられない。
抽象語、カタカナ語が多くてそんなにスイスイとは読めないけれど、読むほどに頭のなかがすっきりする。これは、レズビアンの牧師であり学者である著者が、自身の人生をかけて、身体をとおしたことばで語っているからだ。
レズビアン・スタディーズの教科書として一押しの本である。
自らを問う営み
★★★★★
自らの内面に切り込む思索は、自らを切り刻むような苦痛を伴うことがしばしばである。
これは、そのような思索と実践、そして研究が結実した一冊であろう。
著者が「レズビアン」であることを引き受けることから始まる思索は、むしろ「レスビアンでない者」が自らの内面に切り込むことを促す。自らの内に問題や困難を感じないということは、問題や困難がそこに存在しないことを意味しない。そこにある問題が見えないということから得られる平安は、実は権力関係の上に成り立つ排他的な特権であったり、既得権であったりするのだ。
問題化することなく封殺されている人々への想像力を、私は持っているだろうか。私は、自らの内の問題化されていない問題を見据える勇気を持っているだろうか。
著者や、著者がアイデンティティの一つとして選び取った「レズビアン」を自らのものとして引き受ける人々以外の人が、著者の問いを自らのものとして引き受けてこそ、その問いは意味を持つものとなるのであろう。
この著者の発信が、できるだけの受信の広がりを持つことを望んでやまない。