頽落としての「世人」
★★★★★
第一巻においては存在問題の構造と、考察する対象としての現存在が明らかにされ、さらに世界内存在としての現存在が、道具的連関において分析された。本書第二巻では頽落した「世人 das Man 」としての現存在の、非本来的な諸相が明らかにされる。
現存在は死へとかかわる存在である。いかなる現存在も死から逃れることはできない。しかし現存在は死から目を背けようとする。その結果現存在は「空談」「好奇心」「曖昧性」といった頽落のもとに自らをさらけ出す。すなわち意味のない会話をし、意味のないことに興味を持ち、無意味を無意味のまま放置しておく。それもこれも現存在は死をおそれているのであるが、その死をシャットアウトするために非本来的な自己に甘んじているのである。
しかしながら現存在自身、そのことに気づいていないわけではない。その証拠に現存在は時によって良心におそわれることがある。もっとも良心は現存在に何かを命じるのではない。良心は沈黙によって語るのである。
キルケゴールの『死にいたる病』の影響が顕著なこの部分は、ハイデッガーの意図に反して『存在と時間』を実存主義哲学の書にカテゴライズさせることになった。「存在とは何か」を問うはずだった書が「死とは何か」を問うているかのように誤解されたのは皮肉である。
サルトルが死をさほど問題視せず、また頽落を自己欺瞞としながらも、非本来的な態度として糾弾することはなかったのに比較して、ハイデッガーの哲学は説教的要素が濃い。恐らくは神学の影響であろうが、ハイデッガーが後にナチスにコミットしていくことを考え合わせても、ノーベル文学賞を辞退したサルトルとは実に対照的である。
困難な問い
★★★★☆
本書のタイトルは「存在と時間」となっているが、「存在」も「時間」も、どちらも非常に身近すぎて、私たちはそれらについて、十分に知っていると思っている。しかし本書を読んでみると、私たちの一番基礎の部分にある「存在」や「時間」について、何も知らないのだということを思い知らされる。そしてそれらは実は知りえないことなのかもしれないという絶望感に襲われる。
本書を読めば「存在とは何か」「時間とは何か」が分かる、などと考えてはいけない。分かるのは、存在や時間を問うということがいかに困難なことであるか、ということだけである。しかしそのことが分かるということは、ある意味、存在や時間に対する見方が大きく深まるということでもあり、実はそれが哲学をするということなのだと思う。