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存在と時間〈1〉 (中公クラシックス)

価格: ¥1,680
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
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読むという経験 ★★★★★
ハイデガーを読むとは何か。
それは『存在と時間』を完全に解ることか。 それは違う。この書が発表されて以来、完全に解ったものはいないであろう。この何十年の間、多くの学者が互いに互いの理解を批判してきたのである。

そもそも、ハイデガーを完全に理解したところで、つまり、存在の意味を理解したところで、何になろうか。解ったときからいつもと同じ日常が続くのではないか。
ハイデガーを読むとは、彼の作法を、つまり、思索の作法を読むことではないだろうか。彼がいかに主題を設定し、問題とその場、問いかける対象を見いだし、邪魔者を取り除き、論を進めていくのか。

ハイデガーを読むとは、思索(またはその作法)を経験すること、それはつまり、映画を見て感動を経験することと同じだと私は思う。

読みは思索の経験であり、ハイデガーを読むことは、思索をせざるを得ない私たちにとって、或る意味、日常そのものではないだろうか。
二十世紀哲学最大の問題作 ★★★★★
 好き嫌いは分かれるものの、『存在と時間』が二十世紀最大の哲学書であることは、だれしも認めざるをえない歴史的事実ではないだろうか。
 存在 Sein とは何か。この巨大な問いに対してハイデッガーは「問われているもの Gefragtes 」「問いかけられているもの Befragtes 」「問いたしかめられるもの Erfragtes 」の三者を分ける。この三者がそれぞれ「存在 Sein 」「現存在 Da-sein 」「時間 Zeit 」として定立されることになる。
 Sein (存在)を定義するためには再び Sein (…である)を使わなければならない。トートロジーは避けられないように思われる。だがハイデッガーは言う。Sein という言葉を使っている以上は、われわれは何らかの形で Sein を了解しているはずだ、と。だとすれば Sein を了解している存在者、すなわち現存在 Da-sein からわれわれはまず分析しなければならない。
 現存在にとってあらゆる対象は道具的存在者としてあらわれる。われわれは目の前のハンマーを、単なる取っ手のついた金属の塊として認識するのではない。ハンマーはハンマーとして、すなわち釘を打つための道具としてあらわれる。同様に釘は釘として、すなわち木材を接合するための道具としてあらわれる。
 このような道具的連関の中にわれわれが配置されているのは、われわれが世界内存在 In-der-Welt-Sein であるからにほかならない。現存在はまず存在し、しかる後に自分の周りに世界を見出すのではない。現存在の存在様式は、世界という環境によって規定されている。
 叙述は緻密であると同時に難解である。ドイツ人をして「『存在と時間』はドイツ語にさえ翻訳されていない」と言わしめる本書を、日本語訳で読むにはそれなりの覚悟が要る。この翻訳が一番わかりやすいとは思うが、入門書等による事前準備が必須の書である。
頑固一徹のドイツ的論理が、じっと垂れ込める実存的不安の雲の下で展開する ★★★★★
手で触れる程濃厚な論理。読書中目を上げたら、世界が意味と論理に満ちている世界に見えた。余りに感動して二度読む。
読みやすい。 ★★★★★
 気楽に読めるような内容ではないが、 桑木務訳よりは気持ちよく、言葉を拾い上げて読むことができる。文字が大きく読みやすい。
 新書版の分冊なので、電車の中でも手軽に読める。
 渡邊二郎氏の解説文がはじめに掲載されているので、ここを読むだけでも良いと思える。
 本書第一巻は多くはこの研究の方法論。他の学問からの分離や独自性。とくに存在論は現象学としてのみ可能であるとして、人間学や心理学、生物学にも一線を画すことの必要性や、人間とか生命という表現を避ける必要性、我々自身が存在者であることの特異性が示される。
 何らかの関連によってたつ世界観の「いく層もの関係の網の目」に我々自身がよって立つ存在者だとして、その関係性の薄皮を一枚一枚剥ぎ取っては核心の「存在」へと向かおうとする歩みは遅遅たるものに見える。(誤解を招くものとして、あえて言えば、たまねぎの皮をむいていくうちに、たまねぎの核心はどこにあるのか?とやっている印象もある。)
 しかし、実際読み始めるとなんとも、エキサイティングで攻撃的な、それでいて知的で、ときには焦っていると感じられるほどの表現が、一般的クールさを装う重厚な思索の歩みに隠されていると思える。若きハイデッカーの魅力的な精神性を表した傑作でもある。
困難な問い ★★★★☆
本書のタイトルは「存在と時間」となっているが、「存在」も「時間」も、どちらも非常に身近すぎて、私たちはそれらについて、十分に知っていると思っている。しかし本書を読んでみると、私たちの一番基礎の部分にある「存在」や「時間」について、何も知らないのだということを思い知らされる。そしてそれらは実は知りえないことなのかもしれないという絶望感に襲われる。
本書を読めば「存在とは何か」「時間とは何か」が分かる、などと考えてはいけない。分かるのは、存在や時間を問うということがいかに困難なことであるか、ということだけである。しかしそのことが分かるということは、ある意味、存在や時間に対する見方が大きく深まるということでもあり、実はそれが哲学をするということなのだと思う。