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オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

価格: ¥799
カテゴリ: 新書
ブランド: 中央公論新社
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オレ様消費者が社会を破壊する ★★★★★
子どもは自分が学ぶ内容についてそもそも知らないのだから、それを評価して選択したりする能力は無い。また、子供の「全能感(オレ様感)」は社会に出るまでに矯正されなければなならない。従って、教育は「贈与」にならざるを得ない。

しかし、共同体社会が崩壊し、消費社会で生きる子供たちは、「贈与」を受け入れず、教育を「商品交換」としか受け取らない。だから、注意をされて不快を感じると、居直った態度でその不快を「対価」で取り戻そうとする。

文部科学省も自民党の文教族も、子供たちを万能者扱いして、教師や教育を「評価」させたり「選択させたり」する方向へ教育を変えていくことにより、こうした「共同社会崩壊」の流れをとどめるどころか、より一層進めていこうとしている。

あたまでっかちの理想主義・市場万能主義が、子供たちが共同社会で生きていくための力をつけていくのを妨げ、子供はどんどんオレ様する。「いじめ」などの教育現場でおきている問題の深層を掘り起こしている。

教育の崩壊は、日本の共同体社会の崩壊・消費社会化が要因となっていることであれば、それは若者全体の「オレ様化」「引きこもり」の要因でもあるのではないか。この本は日本の社会が崩壊している有様を教育現場の実態から赤裸々に暴き出している。
「近代」 を強調しても問題の解決にはならない !? ★★★☆☆
学力低下をはじめ,学校ではさまざまなことが問題にされている. 著者は,教師がかわったわけではなくて,1980 年代にはいって,こどものありようがおおきくかわったことがその原因にあるという. ジャーナリズムでは 「こどもが変だ!」 という表現はタブーになっているため,教育問題はいつも学校,教師,文科省などのせいにされるのだという.

NHK スペシャルでとりあげられた,おおくのこどもが 「人間は死んでも生き返る」 と信じているということがとりあげられているが,著者は 「学校で教えられる近代の知識とは,むしろこどもたちの感覚とは衝突するものが多い. そして現代のこどもたちは,客観的な事実 (科学) よりも 「この私」 の感覚のほうを大事にする.」 と書いている. そして,著者はこどもに 「近代」 をおしえることの重要性を説いている. しかし,学校教育というものがはじまって以来つづいてきたはずの近代をおしえることで問題が解決するのなら,もうとっくに解決されているはずではないだろうか? これはむしろ時代錯誤であるようにおもえる.
オレ様化した教師たち ★★☆☆☆
要するに「ベテラン教師」による学校弁護&親子批判の本。
この手の本は決まって特徴がある。
学校の内部から社会を見て、それをわかった気になっていること。
子どもよりも自分たちが行っている教育こそが大事なのだと考えていること。

教育の混乱は柔軟性の欠けた学校制度を中心にしてしか子ども・社会を見ることが出来ない教育者たちと、学校に入れておけばまともな大人にしてくれるのだ、と思い込んだ自称常識的な大人たちによってつくられてきた歪みである。

(追記)
この本の中盤は識者批判なのだが、これが目も当てられないほど酷い内容。
上野千鶴子に対して「学校化してるのは社会じゃなくてお前の頭だろ」、
村上龍に対して「お前が成功したのは学校で酷い目に合ったおかげだ」。
こんなことを、とにかくやたらと回りくどく書いている。
いかにも上からものを見てるような感じで、不愉快になってしまう。
オレ様化しているのはだれだろう ★☆☆☆☆
オレ様化しているのは子ども達だろうか?
子ども達に大勢の中の「私」という認識は無く,唯一の「この私」という認識に生きている。これが著者の言う「オレ様化」である。そこでは「この私」を批判する,「この私」相対化し共同体の中での生きかたを教える教師の指導など受けるはずが無いというのが著者の主張である。
しかし子ども達は本当に「オレ様化」しているのだろうか。私はしていないと思う。子ども達は,「この私」などすでに相対化しており,共同体をも相対化している。子ども達にとって,共同体は自身の生活を規定すると同時に変革の対象でもあるのだ。
著者は,共同体の中で生きるということは,「この私」を俯瞰的に捉え,自分以外の「この私」が存在することを認めることであると主張している。この主張には異論は無い。だが共同体の中でより良く生きるためには,共同体を俯瞰し,共同体をも相対化し,共同体の問題点を改良する必要がある。著者にそれができているとは読み取れない。むしろ,共同体と「この私」を同一視することによって,「この私」を相対化できていないように感じた。そのような著者にとって共同体を相対化した子ども達の存在は,著者の「この私」に相対化を迫るものである。著者はこのような子ども達の存在を容認することができず,共同体,つまり著者自身の「この私」に従うことを要求する。これは,村上龍氏が中学時代に納得できない規則に反論した行為を,「軟弱な文学青年」「屁理屈」と述べている点からも読み取れる。このような視点で著者の主張を捉えると,本書の子どもに対する批判の多くが著者にも当てはまるのである。
「この私」を相対化できずオレ様化しているのは一体だれであろうか。
等価交換の衝撃 ★★★★★
子どもが変わった・・・
昨今よく言われる言葉である。ではどのように変わったのか、いつ頃から変わったのか。
そしてもっとの重要なことはどのように対応していくのか。
プロ教師の会代表として、長年現場で子どもたちを見てきた著者が豊富な経験と深い見識を基に教育の実情を分析し、あるべき姿を追求しているの本書である。

子どもたちが変わった最大の要因。
それは消費主体としての個を確立していることである。消費の主体としての個は金銭と商品を等価交換する。同じ額の金銭であれば誰が持っていようと同じ価値を持つ。たとえ子どもであっても。そのようにして個を確立した子どもたちは学校においても等価交換の原理で望む。

しかし、等価交換には重要な問題がある。
交換するには価値を知ることが必要なのである。価値を知らなければ交換の代償を計り得ない。そして教育というものはそもそもその時点でで価値がわからないから意味があるとも言える営為である。そこで子どもが代償として提示できるものは不快感だけである。自分の時間と労力の代償として不快感を表出するという分析は衝撃的であった。
教育の持つ贈与という前近代的な部分が消費社会とは相容れないのである。

では教育はどこへゆくべきなのか。
これだけ教育を巡る混沌が深まる現在、教育の再定義が要請されているように思える。
本書にはその処方箋の一つが記されているように感じた。