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日本語は本当に「非論理的」か (祥伝社新書 179)

価格: ¥798
カテゴリ: 新書
ブランド: 祥伝社
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一つの議論。これも一つの解釈。 ★★☆☆☆
言葉の数だけ文化あり。一長一短には評価できない、といった観でしょうか。

著者の主張の是非は、個人の判断や解釈にお任せします。が、引用や科学者の立場から見た比較・検証は内容としては十二分に興味深いと思われるだけに勿体ない。
(私が個人的に著者の文章と相性が悪かっただけかも知れませんが。)
比較言語としては不十分でしょうね。(そんなところは目指してないのでしょうが。)
「そのとおりと思いますが私はこうも思います」と言うと怒られそうですが。 ★★★★☆
日本語が非論理的とは誰も思っていないでしょうが(また「思う」という単語を使ってしまいました)、日本語を英語に置き換えて使うときには語彙、用法を英語のロジックに合わせないと誤解を招くほか、真意を理解してもらえない可能性が高いということではいけないでしょうか。ここで説明された事象、問題点、課題は全く同感です。(私も著者には遥かに及びませんが英語人のなかで数十年ビジネスをして散々苦労してきました。その経験です)最近の世相で日本語能力が低下してきたことにやはり危惧を持っております。だからと言って日本語をもっと論理的に使わねば、「思う」という言葉は問題であるというのはそこまでの話なのかなと「思い」ます。「思う」という昔からあった言葉が時と場合により色々な意味をもち、その意味を共有する文化(ハイコンテクストです)は駄目なのでしょうか。英語人からすればそうかもしれませんが、私はそこに意味を与えたい。繰り返しだが、それを世界に、特に英語人に伝えるときはローコンテクストな相手に合わせるだけの力を逆に持たねばならないが。著書には「思う」という単語が使用されていないが、個人的にはそこが論旨、表現に硬さを生み、逆に著書に共感する何かが伝わってこないように感じました。内容はおっしゃる通りなのですが。
日本語は「論理的」です ★★★★☆
 物理学者としての海外経験にもとづいた日本語論。より正確には、文化論やコミュニケーションのあり方にまで広げて論じたものといえよう。
 「思う」「思います」という表現からスタートし、ディベートを重んじない日本の知的風土を憂い、論理的な議論の重要性を指摘する。しかしまた日本語にも論理性があり、穏やかさなどの長所もあるとする。しかしこれからは論理性・客観性が求められているとする。
 基本的な主張としてはごくオーソドックスで、バランスも取れている。「日本語が使えないと英語も正しく使えない」などもっともな主張も多い。
 しかし、「日本語は世界のいろいろな言語の体系の中でユニークな地位を占めていると言ってよいというのが、私の見るところである。(p91)」「優美に聞こえるのは、日本語の構文の形式が、英語、中国語ほかのほとんどの外国語のものと根本的に異なっているからである。(p188)」などいうのはどうであろうか。チョムスキーやサピア・ウォーフをあげておきながら、これはいささか詰めが甘いのではないか。文化的なことはさておき、言語としては日本語はごくありふれた、普通の文法を持つ言語である。英語や中国語ばかりが外国語ではないし、むしろこれらの言語は特殊な点が多いのである。そもそも、少なくとも活字レベルで「日本語は非論理的である」などという主張は今日ではあまりなされないのではないだろうか(茶飲み話、床屋談義などは分からないが)。