特に冒頭の戦車兵時代の記述に関してはまさに昨今はやりの言葉である「トラウマ」というに相応しい痛々しい文章が並び、司馬に批判的立場をとる評者としても同情を禁じえない、対して後半の司馬得意の歴史雑記のとぼけた味わいはエッセイとしてとても楽しめるものとなっている、
戦車兵時代の文章から明瞭すぎるほどに浮かび上がるのは司馬遼太郎AKA福田定一個人がどれほど「軍人」に不向きな青年であったかである、評者はここで考えてしまう、司馬のような兵隊にまったく不向きの人物でさえ「甲種合格」し一歩兵でなく戦車兵として使わざるを得なかった大東亜戦争末期の帝国陸軍の不幸を、そしてその不幸を招いた大きな責任と欠陥が陸軍自身に存在したことを、
評者のように大東亜戦争を支持する立場のものには目を疑うような記述が毎ページごとのように現れるのだが、いくつか引用してみる、
司馬は書く、「私はつい不覚にも大正時代にうまれてしまった」と、
大雑把な見方をすれば大東亜戦争は明治生まれが指揮し大正生まれが戦ったわけであり、戦闘の中心世代であった大正生まれに属することを司馬は誇れないらしい、堂々と国運を背負って戦った多くの同世代たちに単に「後方」でうろうろしていただけの司馬のようなものがこんな発言をして恥ずかしくないのだろうかと評者は考えるが、逆に評者自身は不覚にも昭和に、それも昭和の戦後に生まれてしまった、とはよく頭をよぎる、
続いて司馬は書く、「日本という、、、国は戦争をやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆくほうが大事なように思えるのだが、どうだろうか」、これが本当に日露戦争を題材に大長編小説を書いた作家と同一人物が書いたものなのだろうか???