田端の文学的香り
★★★★★
山手線沿線の田端。この界隈はかつて芸術家たちが住む村だった。明治の末には一面の畑だったが大正の初めにかけて陶芸家として有名になった板谷波山がここに住み、大正3年に芥川龍之介が引っ越してきて以後(彼の人間的魅力もあったのかもしれないが)、続々と若い文士が集うようになった。
室生犀星、萩原朔太郎、瀧井孝作、久保田万太郎、堀辰雄、中野重治、佐多稲子、菊池寛、平塚らいちょう、等々。数えあげればきりがない。
「この田端の風土と人脈は、近代文学史に一線を画す芥川文学の背景であり、かつ大正から昭和への文学的胎動も、この地に一典型を認められることに気づくのである」(pp.8-9)。本書は芥川龍之介を中心におきながら、文学者、芸術家の集団を丹念な調査と聞き取りでまとめたもの。その芥川について著者は次のように書いている、「芥川は田端の王様であった。眩い存在であった。誰もが彼を愛さずにはいられないほど彼は才学に秀で、誰にも優しく、下町人特有の世話好きの面もあり、懐かしい人だった。その代わり、彼の前にでると、何時の間にか自分は吸いとられ、新しい人間に生きかえされている。しかしそうした結末を当人は喜び、新しい衣服を喜ぶ心理で、いっそう芥川を愛したというのが、芥川家に集った大方の文学志望者や芸術家たちではあるまいか。となれば、そうした人たちは互いに自分と芥川の距離をいつも他人と比較し、親疎をひそかに競っていたにちがいない」(p.172)。
新しい幼い頃からここに住んでいた著者の経験が何とも強みで、本書の全体からは田端の匂いがたちのぼってくるようである。巻末の地図(文人・芸術家の住居がプロットしてある)は、貴重(pp.280-281)。