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翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 岩波書店
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刺激的な言語論 ★★★★☆
1982年に書かれたかなり古い作品だが、いま読んでも新鮮さを少しも失っておらず、たいへん刺激的な一冊である。「自由」「権利」「自然」「恋愛」といった西洋語起源の単語をわれわれは当たり前のように使っているが、はたしてその本当の意味(その元となる西洋語の単語の意味)を把握しているのか、実はよく分からないのに四角張った漢字語という理由だけで有難がっているだけなのではないかという、かなり深刻な問題提起をする。著者は主としてそれを通して日本による外来文化の受容の特質を論じているが、日本文化論以上に、人間の言葉の危うさについて考えさせられる。メディアの発達で、われわれは絶えず言葉をたくさん生産し、流行語としてはやし立てて、しかも無反省にまた新しい言葉を求めるが、その結果、言葉が気づかれないうちに変質し、内容も希薄になり、そして場合によって無用、不毛な論争さえ引き起こしているのではないか。小難しい言葉、流行っている言葉を使うだけでその言葉が表すはずの概念を分かったつもりでいながらも、本当のところは何も分かっていないのではないか。言葉の使用について反省させられるし、自分が持っていると思い込んでいる知識についても再考を迫られる。
本年度、私のベスト10入り間違いなし! ★★★★★
社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼/彼女などの、西洋の概念を造語や従来の言葉を用いて翻訳しようとした明治人の苦悩が描かれている。この本が素晴らしいのは、先人の並々ならぬの努力が伝わってくることと、著者自身が膨大な資料にあたり実例を出しつつも断定を避け、謙虚にも「と私は考える」という姿勢を崩さないことだ。尊敬すべき研究者だと感じた。

「まえがき」において著者は次のように述べる。「日本の学問・思想の基本用語が、私たちの日常語と切り離されているというのは、不幸なことであった。・・・他面から見れば、翻訳語が日常語と切り離されているおかげで、近代以後、西洋文明の学問・思想などを、とにもかくにも急速に受け入れることができたのである」このような指摘を初めて目にしたが、まったく的確な指摘だと思う。

しかし何といっても面白かったのは「カセット効果」と著者が名づけているものである。「四角ばった文字」は、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には、よくは分からないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側で思い込むという効果である。中でも1890年に雑誌に掲載された「恋愛」の実例をあげ、「英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国家を固むる恋愛よ」をあげ、「いったこの人は『恋愛』を何のことと思っていたのだろうか」には噴き出した。感銘を受けると同時に楽しめる本書は、読者を魅了してやまない
知識人の苦悩 ★★☆☆☆
翻訳語の成立過程での苦悩。

他国の言葉を時自国の言葉に言い直すのですから、もちろん大変ですよね。しかも、最初は言葉だけが入ってきて文化は入ってこないということがあったみたいですから。この本を読めば、福沢諭吉などなどの知識人の苦悩が手に取るように分かります。日本語を大切にし、より深く理解しようとする人は是非読んでみて下さい。
日常語から疎隔 ★★★★☆
「恋愛」「近代」「権利」など、日本には存在しない概念に、漢字をあてる苦闘が描かれる。僕がとりわけ興味深かったのは「存在」の章。「存在」という語をあてることは決して道理がないわけではない。でも、日常では使われないこうした漢語が頻繁にあてられたことで、抽象的な概念の理解をより難しくしてしまったところがある。著者が指摘するように、啓蒙思想家はラテン語ではなく、あえてネイティブの言語で書いた。それはできるだけ多くの人たちにわかりやすく読んでもらうためである。ところが日本語になおされると、日常語から疎隔された難しいものになってしまった。もはやとりかえしはきかないわけだが、翻訳者はできるだけ日常語で訳すのが必要だなと思った。
比較文化論として読み応え十分 ★★★★☆
 人類が「重力」なるものを認識したのは、ニュートンが万有引力の法則を発見して以来であるという言い方に倣って言えば、日本人が「恋愛」なるものを認識したのは、明治3~4年に出た中村正直訳『西国立志編』以後ということになる。「恋愛」を「情」、「色」、「恋」などの語感と比べてみよう。「恋愛」の方が舶来風で、より高級、より新鮮、より重要な語感に漠然と支えられ、人を魅了する(これを著者は「カセットcassette(小さな宝石箱)効果」と呼ぶ)。しかし一方で翻訳語は当方の伝来の言葉を避け新造語で対応したため抽象的になり、「具体的な用例が乏しいので、ことばの意味が乏しく、分かりにくい」。が、「ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。…ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分からないから、かえって乱用される」。何だか最近の新歴史主義だの、植民地主義だの、公共圏だのといった批評用語の話を聞いているようだ。
 翻訳語には「おもに漢字二字でできた新造語が多い。とりわけ学問・思想の基本的な用語に多い」。たしかに「日本の学問では、その用語は、基本的であればあるほど翻訳語である場合が多い」。日本語は漢字を取り入れ、欧米言語を取り入れて来たが、中国語も西欧語も「名詞中心」だからそうなった。つまり「『存在』論…は学問になるが、『ある』論は学問にならない」のだ。学問・思想の分野で我々は「やまとことば」を切り捨て、日常のふつうに生きている意味から哲学などの学問を組みたててこなかった。それは「ラテン語ではなくあえてフランス語で『方法叙説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反する」。
 「大学教授」。何といかめしく、いかがわしい言葉か。いかにもセクハラ事件でも起しそうな言葉だ。福沢諭吉は明治8年の『文明論之概略』でsociety(今はふつう「社会」としているもの)を「人間交際」と訳したが、これに倣って、universityとprofessorの語源をできるだけ考慮し、この二つを足して新訳語を考えてみた。「総合学問所専門職」でどうだろう。