1965年1月『E.S.P.』
1966年10月『マイルス・スマイルズ』
1967年5月『ソーサラー』
1967年6月・7月『ネフェルティティ』→ここで、ジョン・コルトレーン死去
1968年1月・5月『マイルス・イン・ザ・スカイ』
1968年1月・9月『キリマンジャロの娘』
1969年2月『イン・ア・サイレント・ウエイ』
と繋がっていく。『E.S.P.』では4曲作曲していたマイルスは『マイルス・スマイルズ』では1曲になり、1967年5月『ソーサラー』と1967年6月・7月『ネフェルティティ』ではついに0となっている。メンバーの成長によりメンバーの曲を演奏しながら、実はマイルスの奥底には1967年に登場したジミ・ヘンドリックスに強いインパクトを受け、ファンクとエレクトリックへの止めようのない芽が目覚めていたと僕は見る。
それがついに爆発しだしたのが前作『マイルス・イン・ザ・スカイ』である。そしてほとんど同時進行的に録音された本作『キリマンジャロの娘』では、チック・コリアとデイブ・ホランドを参加させ、ファンクとエレクトリックへの止めようのないベクトルはついに完全にマイルスを貫いたのだ。
ここからは怒濤のようである。完全体となる1969年8月の3日間CBSスタジオで録音された『ビッチズ・ブリュー』から、マイルスが一時沈黙するまでの間に演奏された作品群は、ジャズ・ファンクという強烈なベクトルに、才能あるミュージシャンを次々と放り込み、その渾沌から何が見えてくるかをマイルス自身も若手も同時体験する。本作はそのはじまりである。