日本人にとって「ヨーロッパとは何か」を根本的に探求した古典的名著
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ロングセラー『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書、1979)の著者によるヨーロッパ論。
私がこの本をはじめて読んだのは今から30年近く前もだが、今から10年前に読み返したときも、また今回読み返しても、内容をとくに大幅に修正する必要のない、もはや古典といっても言い過ぎでない本になっていることを実感した。
長く読み続けられてきた本に特有のオーラがあるのだ。
「ベルリンの壁」がまだ存在した冷戦時代に書かれた本だが、政治的に線引きされた国境にとらわれず、ヨーロッパを根本的に理解するための視点を提供してくれる。
著者の問題意識は、あくまでも日本人にとって「ヨーロッパとは何か」という探求姿勢にある。
この問いに対して、著者は地理的要因から説明を始める。これがきわめて重要なのである。
地理学者でかつ歴史学者であったフェルナン・ブローデルは「地中海世界」の全体史を描ききったが、これに対して著者は「アルプス以北」の世界の構造を明確化しようと試みる。
明治以降、西洋近代化への道を選択した日本に、文明レベルで大きな影響を与えたのは、アルプスより北に位置する西欧であった。 だから、日本人にとってのヨーロッパは、何よりもまず「アルプス以北」なのである。
西洋中世史を主たる研究テーマにしていた著者は、フランク王国を知らなければヨーロッパとは何かを知ることはできない、という。
フランス革命以降成立した「国民国家」という枠組みにとらわれていては、ほんとうのヨーロッパは見えてこないからだ。戦争のたびに国境線が引き直されてきたということだけをいっているのではない、「国民国家」成立以前は、国家意識も現代ほど明瞭ではなかったのである。
ある意味、同じく著者の代表作である『都市』(ちくま学芸文庫、1994)と同様、社会学的な問題意識をもってヨーロッパ研究に取り組んだ、「比較社会史」志向の歴史書といえる。
著者は狭い意味の専門家ではなく、歴史学を真の意味での実学として研究してきた人であった。
こういう本をきちんと読んでおくと、イデオロギーにとらわれないもの見方が身に付くはずだ。必読の基本書である。
ヨーロッパを考える上で最適な一冊
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例えば、韓国・中国・日本の3国を取り出したとき、お互いの関係は、イタリア・ドイツ・フランスのそれとは異なる。すなわち、ヨーロッパの方が、国家の間の敷居が相対的低い。そのような「ヨーロッパ」なる地域の共通基盤の成り立ちを、フランク王国成立期(9世紀)までに焦点を当てて歴史的に探る名著。多面的な角度からヨーロッパの成立に光が当てられるが、敢えて述べれば、著者は、この時期における修道院の活動が、「ヨーロッパを東洋と区別する大きなわかれ目」(p.125)と考える。より具体的には、「世俗世界からのがれて冥想の世界に入る東洋の修道士とはちがい、労働と信仰を結合した規律ある経済単位をつくるというヨーロッパの実践的修道院制度は、あきらかに古代的な人間類型を根本的に変革するものであった」(p.187)と言う。もっと重要なことは、「一般の民衆が、日常生活の共同の場を築く際に、そうした宗教的なるものを世俗化して生かしている」(p.193)という点である。まさにこの指摘は、明治期に欧米の文物を取り入れた際、「いちばん見落とされていたのは、ほかならぬ社会生活の規範意識、つまり、社会生活のルールをどうして打ち立てていくか、あるいは社会生活というものは国家生活から離れてどういう問題を含んでいるかという問題の受け取り方の工夫であった」(pp.5-6)という本書の導入章での著者の洞察に対応するものである。国境を超えた個人どうしの接触は、我々の父母や祖父母の世代よりも断然増し、人としての付き合いのレヴェルにおいては、国籍の違いなどさして気にならないと感じる人の数は、現在進行形で増えているだろう(言葉の違いは大きいが)。しかし、個人を超えた、地域単位や国家単位どうしの「距離」はそれに比べるとどうであろうか。また、個人どうしであっても、それぞれがそれぞれの「国」や「歴史」を背負うと生じるギャップ。その源泉は一体何なのか。こういったことに関心のある人には、是非一読を薦めたい。
今なお読める古典
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現代何気なくヨーロッパと呼ぶが、それが何かという問いかけは
90年代にヨーロッパ人自らが考えるようになった。本書は60年代に
書かれたものだが、知識をもって熟考することのすばらしい成果
とはこういうものを意味するのだろう。特にフランク帝国の歴史を
語らずしてヨーロッパの成り立ちは語れないとするあたりは、
目まぐるしく変動した19、20世紀ヨーロッパに目を奪われがち
な思考に新鮮な空気を与えてくれる。