『慈悲』は、怒り、恨み、憎しみを超えられる
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激しい”怒り”、長年の”恨み”、感じて、感じつくしても、際限なく沸いてく
る”憎しみ”。
それらに付随する”恐怖”、”罪悪感”。
マイナスの感情は複雑に絡まりあっており、かつ、強力なエネルギーをともなっ
ているので個人ではとても対処できそうもないように思えます。
このような強烈なマイナスの感情には、どう対処したらよいのでしょうか?
その答えは『慈悲』です。
『慈悲』の心は、実際、怒り、恨み、憎しみなどを超えることができます。
テーラワーダ仏教は、実践に重きを置いていますが、『慈悲』の実践は、
ヴィパッサナー瞑想と共に行うのが、やはり一番効果的だと思います。
意識の表層でも効果を発揮しますが、意識の深層のあらゆる”痛み”も『慈悲』
は癒すことができるのです。深層にアプローチするとなると、ヴィパッサナー瞑
想で培った洞察力、集中力が大変役に立ちます。
ブッダの教え、テーラワーダ仏教の基本は、「自分で体験して実感すること」で
す。
是非とも、『慈悲』の作用を実感してみてください。
慈悲とは”無私の行為”であることがわかります。
「私が〜」とか「私の〜」が入る余地がない。
「私が幸せでありますように」という自分のための慈悲の祈りも無私の行為です。
なぜなら私達は「私の利益」を追求する自我(エゴ)の目的のために、自分自身
すら犠牲にしているからです。自分に慈悲の祈りをするということは、真に自分
に対し優しい態度をとるということです。
この本を読んで、ブッダは現代でいうミルトン・エリクソン(天才的な心理療法
家)のような存在だったのではないか?と思いました。
喩え(メタファー)を駆使した説法で、認知行動療法を効果的に施している
ブッダは、2500年前の心理療法家としても活躍していたのでしょう。
怒りから慈悲へ
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スマナサーラ長老による、Kakacupama Sutta - The Simile of the Saw (Majjhima Nikaya 21)の精細な解説です。「○△経とは、これこれしかじかについて説かれたものだ」といった、抽象化された知識(情報)を伝聞するのではなく、ひとつひとつのステップを正しい順序で、自ら正確に咀嚼する過程が重要なのだということがよく理解できました。たとえば、パーリ語でsuvaco(素直)ということばが語られていますが、これは直訳では「言われ易い」という意味なのだそうです。suvacoという資質がないと、周囲からのフィードバックも少なく、またそれを理解することもできないので、成長するチャンスも失われてしまうのでしょう。このようなことも、勝手に大雑把な読み方をしていては決して身に付くことはないのでしょう。心に怒りが兆しそうになったら、『ノコギリのたとえ』を思い出して自らを戒めようと思いました。
『慈経』に匹敵する好著
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今回は、マッジマ・ニカーヤのなかの『ノコギリのたとえ』のコメンタリーとなっています。
現代社会の生活の中では、怒りの感情を持って生活することは当たり前となっています。
ですが、そのような私たちの「常識」は本当に正しいのでしょうか?
釈尊はそんな私たちの「常識」に疑義をつきつけ、その常識を根底から破壊します。
本当のテーラワーダの修行者にとって、怒りの感情を持つことはあってはならないことなのです。
怒りの感情は強烈な刺激でもあります。
普段の私たちの生活はそれに浸りきっていることもあり、怒りの感情を絶つことは極めて困難なことでしょう。
しかし、私たちはそのような困難を乗り越え、怒りを制することを学ばなくてはなりません。
そして、本当の意味で怒りを制することができたとき、私たちは「慈悲」について真の意味で理解できるのではないでしょうか。
本書ではそこにいたるまでの道しるべとして、明快な例えとともに私たちが戒めるべきポイントが語られています。
『慈経』とならび、全テーラワーダ仏教徒必携の書といえるでしょう。