谷崎文学のクロスロード
★★★★★
この作品を読むと、移り変わっていく途中にある主人公の心境が何よりも物語の焦点・描写の焦点になっていると思えてくる。「痴人の愛」で別れを告げたかのような西洋的な美・西洋的な価値感覚を遠くに見送って、日本的な美に傾倒していく主人公の嗜好と行動が、ゆったりとした速度で語られる。物語の途中で「千一夜物語」を主人公が読んでいるくだりは、村上春樹の小説でよく用いられる手法でもある。西洋ー中東ー日本の心情的な移動が仄めかされている。
そんな書きぶりからも思ったのだが、この小説は谷崎潤一郎自身の自己言及の作品だろう。「痴人の愛」からこの作品で、西洋的な美や価値感覚の浅薄さを離れ、「春琴抄」以後の諸作品を残した、その道程までのある意味トランジットにあった作家の心情がとても素直に入ってくるように思う。
終わり方のおぼろげなところ、そこからあの傑作たちが生まれてきたのを空想すると味わい深い。
蒔絵の提げ重
★★★★☆
むずかしい作品でした。導入部から不思議な人間関係が展開されます。ここで繰り広げられる要と美佐子の夫婦関係は、徹頭徹尾、自己決定という態度の選択から、遠くはなれたものです。夫婦としての実体がすでに崩壊していることを両者共に認識しながらも、そしてその結末の近さを認識しながらも、現実は前には進むことはありません。「子供」の存在と近代の合理性の明快さを持ち込む従弟の登場にもかかわらず、最後までこの夫婦関係の破綻が事実へと発展することは明示的には示されていません。要のルイーズとの関係も、アクセサリー以上のインパクトはありません。それと対照されるのが、「美佐子の父」とお久との間のもうひとつの不思議な男女関係です。この男女関係は、親子ほどの年齢差にもかかわらず、前者のような”崩壊”への予感を与えることはありません。そこには要と美佐子の間のような「会話」は存在しません。その関係は細かいディテールの積み重ねによる、雰囲気の提示意外には描写はできません。このディテールとそこでの様々な小道具の使用はもはや現代の日本人にはついていけないものばかりです。人形芝居と人形浄瑠璃の観劇のシーンはその極致です。要と美佐子の父は、両者共に生粋の関西人ではないことが文中に示されており、どちらも作者の分身なのでしょう。というわけで、このディテールの描写はちょっとしつこいほどです。そして、最後の場面は、京都となります。ここでも結末は明示されることなく、この二つの分身は止揚(?)されぬまま、時間の経過による変化のみを暗示しながら、見事な余韻(207から208ページ)を漂わせて締めくくられます。
文章も巧いが、挿絵も素晴らしい
★★★★★
離婚は結婚の何倍も骨が折れる、とはよく聞くことだが、本作では妻に愛人、夫には娼婦通いという、もはや収拾のつかなくなった夫婦の離婚に向かうまでを描いている。いかに円満に別れられるか、ということを念頭に置いて行動する主人公の葛藤や心情を鮮やかな描写で綴っている。この描写の巧さはさすが谷崎といったところ。
場面ごとの一瞬を巧みに切り取った小出楢重の挿絵が素晴らしい。挿絵の白眉ここにあり。新潮からも出ているが、小出の挿絵が収められた岩波文庫の方が断然お薦め。
陰翳礼讃のまえぶれ
★★★★★
主人公夫婦、妻の父親のふたつの話が交互に語られる。後者の話で、老人趣味がぞんぶんに描かれていて、いっしゅん荷風の小説や随筆を読んでいるのかと勘違いするほどである。後に書かれる陰翳礼讃で述べられていることがここにあった。文章に関しては特別実験していず、何の変哲もないものなのだけれども、すらすらと内容が頭に入るのである。こういった文章は名人にしか書けないものなのだろう。
陰翳礼讃のまえぶれ
★★★★★
主人公夫婦、妻の父親のふたつの話が交互に語られる。後者の話で、老人趣味がぞんぶんに描かれていて、いっしゅん荷風の小説や随筆を読んでいるのかと勘違いするほどである。後に書かれる陰翳礼讃で述べられていることがここにあった。文章に関しては特別実験していず、何の変哲もないものなのだけれども、すらすらと内容が頭に入るのである。こういった文章は名人にしか書けないものなのだろう。