共和国
★★★★★
1 スピノザは、イエズス会等の文献を読んだのか、
日本の鎖国のことも知っていたらしい。
2 基本をふまえ、応用する姿勢に感動した。
言論の自由。
思想史くずれ
★★☆☆☆
まずタイトルからしてピンボケに思われる。何をもって「神」と考えるのか,何をもって「宗教」と考えるのか,厳密な定義はできないとしても,ある程度の条件なりイメージなりが確定されていなければ,なんだかわからない話しになる。
著者によればスピノザの「神」は「自然」であってペルソナではない。また「宗教」とは十戒に代表される掟への服従(敬虔)に対する命令と権威であって,啓示された真理ではない。スピノザと一般的なユダヤ・キリスト教徒とでは,,あったく異なった神観,宗教観をもっているのだから,「無神論者は宗教を肯定できるか」などと問うても,面白くも何ともない。
敬虔を破壊しないためには理性にどこまで自由を許すべきか,という問いは,「神と隣人を愛せ」だの「殺すな」だのといった掟が,根拠があるかどうかとか真理であるかどうかとかいったこととは無関係に筋の通った掟なのであり,なんでこの掟に筋が通っていると判断できるかどうかもまた,問うべき問題ではないのであると言い張ってしまえば,そもそも問いが成立しないようなものである。
おそらく,この本で扱おうとしたようなテーマは,「思想史」の問題として,つまりそれぞれのキーワードに具体的な歴史的社会的負荷をベッタリとかけた形で,扱うべきであったのであり,これをキーワードを抽象的に扱うところの「哲学」の問題として手がけたから,なにやらふぬけたものになったのはないか。
ついでに。著者がスピノザの「自然」概念を扱うとき,同じく「自然」を重大なキーワードとした中世哲学への目配りが,まったく欠如している。だから,オリジナリティの皆無なところに独自性をみようとするといった的はずれが生まれる。読むに値する書物とは思えない。
スピノザの企図の明晰な見取り図
★★★★★
『エチカ』と並ぶスピノザのもう一つの主著、『神学・政治論』をまっすぐに丁寧に読解しており、明晰である。同じ著者による『エチカ』読解を中心とした入門書『スピノザの世界』(講談社現代新書)と一対をなす。いずれも難解で知られるスピノザの議論から、その要点を的確に絞って簡潔かつ平明に提示しており、スピノザそのものに取り組む前に一読しておくと、有用な指針となると思われる。
とりわけ『神学・政治論』は、政治と宗教と倫理とを、それぞれの次元に厳密に限界画定をすることを企図しており、スピノザの仕事のなかで『エチカ』を位置づけるためにも、『神学・政治論』の的確な読解は必須の作業である。いや、それが必須であることをクリアに示したのが、上野氏のこの二冊目の入門書『スピノザ』なのだろう。この著書のおかげで、『エチカ』と『神学・政治論』との関係が了解できる、と言えよう。
近代国家の黎明期において、ある意味で(現代政治学の用語で言えば)「政教分離」を思考しつつ、しかし同時に、聖書の首尾一貫した解釈を提示することで、宗教そのものは擁護する。このスピノザの姿勢は、きわめて先駆的にヨーロッパ近代の市民社会の原理を打ち出していたものと言えるだろう。
だが、(入門書であることを承知で)あえてもの足りなさを感じた点を挙げると、宗教の問題を思考するのであれば、スピノザその人における「マラーノ(隠れユダヤ教徒)」の問題を、主著のなかでどう位置づけることができるのか、著者の見解を示してほしかった気がする。スピノザの特異性を屈折したユダヤ性に還元するような議論には与しなくとも、しかし、完全に無視することもできないような気がする。それを上野氏はあえて触れなかったのは、入門書としての性格上、合理的なことだったとは思うが、本書で宗教の位置づけを主題の一つとする以上は、その点に言及があってもよかったと思う。
積善の真理は、霊性が智慧から導き出す
★★★★★
「はじめに」で著者は、“つまり、どういうわけか「無神論者」と目される哲学者が聖書の権威を擁護しようとしているように見える。それもなんだか奇妙な仕方で。”と述べる。まるでサスペンス劇場のような謎かけに引き込まれて一気に読んだ。最後まで面白い。
本書の核心は、スピノザが『神学・政治論』で目指した“神学と哲学の分離”の解明である。スピノザの“理性は真理と叡智の領域を保持し、神学は敬虔と服従の領域を保持する。”という言葉に対比して、著者は “哲学は共通概念を基礎としもっぱら自然からのみ導き出されねばならないが、信仰は物語と言語を基礎としもっぱら聖書と啓示とからのみ導き出されねばならない。”(p.57)と述べる。
こうした著者の説明を読むと、スピノザのシナリオは“哲学の目的は真理であり、それは理性が自然から導き出す。また信仰の目的は積善であり、それは神学が聖書と啓示から導き出す。”ということのようだ。要するに、神学と哲学は次元が違うので、比較することは無意味であると言っている訳である。
それは、一つの見識ではある。しかし、積善にも真理はあるはずである。その場合、理性が自然から導き出すのではなく、霊性が智慧から導き出すことになるのであろう。人類の歴史でこれを成し遂げたのは釈尊だけである。その解明がスピノザの目指すものを実現するに違いない。
スピノザの画期的な宗教批判を解明
★★★★★
著者は日本のスピノザ研究の第一人者。昨年出た『スピノザの世界』(講談社現代新書)は優れた『エチカ』論だったが、本書はスピノザの『神学・政治論』に焦点を絞る。『神学・政治論』は、きわめて鋭いキリスト教批判で、刊行されるや否や「前代未聞の悪質かつ冒涜的な書物」として禁書になった。だが『神学・政治論』は、宗教を肯定しているようにも見える不思議な書物である。聖書の根本命題は「隣人を自分のごとく愛しなさい」という一点に尽きるのであって、これは一切の理屈抜きに絶対に正しいとスピノザは言う。にも関らず、ユダヤ教、キリスト教はもとより、もっともリベラルであったデカルト派からも、「最悪の書物」として憎悪された。
上野氏は、『神学・政治論』の画期的意義は、宗教と哲学を完全に無関係なものとして、相互不干渉の原則を打ち出した点にあるという。『聖書』には、ありそうもない超能力や予言の話がたくさん出てくるが、デカルト派のように、それらを無理に「比喩」として合理的に解釈する必要はない。たとえば「神は火である」という文章は、古代のヘブライ語の語法では、「火」は「怒り」「嫉妬深い」という意味を持つので、少しも不思議ではない。『聖書』は、隣人愛という「普遍的信仰の教義」を語るにふさわしい文法を持てばよいのであり、それは、「真理条件ではなく、主張可能性条件の問題である」(p47)。「奇蹟」も、民衆に「そう見えた」のであれば、それはそれで結構な話だから、ケチをつける必要はないし、預言者モーゼは無知だったからこそ、策略や欺瞞とは無縁で、あれだけの力を発揮できたのだと、スピノザは言う(p91)。ヘブライ神政国家の内に無意識に存在した「社会契約」的契機を、スピノザは当時のオランダの民主制と重ねたという、上野氏の指摘は鋭い(p66f)。