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ゴシックとは何か―大聖堂の精神史 (ちくま学芸文庫)

価格: ¥1,050
カテゴリ: 文庫
ブランド: 筑摩書房
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幅広い読者を楽しませてくれるヨーロッパ文化の一断面 ★★★★★
素晴らしい力作である。著者自身もあとがきで述べているように、本書は建築様式のみの視点からではなく、「数世紀にわたる宗教・社会・文化の視点から大聖堂を考察」している。

通読すると、ゴシック様式の特徴、その誕生の経緯、その衰退の経緯、その復興の経緯、さらにはゴシック様式と対比しながらルネッサンス様式の特徴や誕生の経緯まで理解できるという充実した内容だ。著者の明快な文章と豊かな想像力に助けられ、飽きずに最後まで読み通すことができた。

そしておそらく本書は、建築に興味を持つ人はもちろん、キリスト教に興味を持つ人、中世ヨーロッパの庶民の生活に興味を持つ人、技術革新と社会の変容に興味を持つ人など、多様な読者を楽しませるだろう。著者はゴシック建築の特徴の一つを「他なるものへの絶えざる開け」と定義しているが、まさに本書自体も「他なるものへの絶えざる開け」を有しているように思われる。

わずか900円のコンパクトな文庫本に、これほど充実した内容が詰まっているとは、コストパフォーマンスも大変よい。フランス、イギリス、ドイツ、スペインなどへ旅行される機会があれば、行きの機内で読んでみると、大いに興奮が高まるのではなかろうか。そして、こうした時代背景を知った上でゴシック様式の大聖堂を見れば、その感動はきっと厚みを増すだろう。
共存態としてのゴシック ★★★★★
キリスト教信者でもなく、人工物も好まない私が、なぜゴシック大聖堂に魅せられるのか。この名著を読んで初めて理解した。
著者の言うとおり、ゴシック大聖堂の内部は、落葉樹からなる深い森と豊穣な聖性に充ちており、終わりなき上昇と混合を目指している。様々な時代と様々な要素が混ざるこの曖昧な恍惚境において味わう一体感ほど自然崇拝を思い出させるものはないのだろう。
この本は、ゴシック大聖堂の本質と誕生過程を示したのち、プロテスタンティズムの二元論による大聖堂(及び自然崇拝)受難の時代と、イギリス発ゴシック復活からモネのルーアン大聖堂、ガウディまでを説ききっている。
時代を超え、個を超えた共存態としてのゴシック大聖堂。自然が失われ行く中で、その光輝はこれから益々貴重なものになっていくだろう。
ゴシックの精神 ★★★★★
ゴシック建築というとゴート人の創りあげた奇怪な様式として長らく信じられていたが、実際にはこのゲルマン人とゴシック様式は係わり合いが無く、12世紀に北フランスで興ったカトリック教会の建築様式は、むしろケルト様式と言ってもいいくらい土着の民族との関係が深い。例えばパリやシャルトルの大聖堂のルーツを辿って発掘を進めると、その下からケルト信仰の祭壇が発見されるという興味深い事実が著者によって明らかにされていく。中世時代まだ土着の古い異教信仰に執着していた民衆をキリスト教化する為にカトリックの司教達はキリスト教自体をまず異教にあてがい、一度は妥協して信者から違和感を取り除き、あたかも従来の宗教を信仰しているような錯覚を起こさせ、最終的には異教を完全に隠蔽してしまうという方法を常套手段にしていた。それには異教信仰の場である深い森を髣髴とさせる高い天井とほの暗い空間、それに土地の人々すべてを収容する広いスペースが必要だった。森の木漏れ日はステンドグラスになった。このような方法で古来からあった大地母神信仰が鮮やかに聖母マリア信仰にすり換えられるあたりはひとつの離れ業を見ているようで感心させられる。
森がいる、森が必要だ、森がなければ人は森を作るだろう、そこに集うだろう ★★★★★
小さな名著です。よく考えてみればわかることだが、ヨーロッパのあの開拓された平野が、もともとあんな姿だったはずはない。もとはすべて濃密な広葉樹の森だった。人々は森を恐れ、畏れ、生きていた。そこに大開墾時代がやってくる。森は大規模に破壊され、畑が食料生産を飛躍的に発展させ、人口は急増し、土地は成長する。それを支えたのは、組織的な教義をもつキリスト教。でも心はなかなか変わらない。不安がつのれば、人々は大地との絆をむすびなおすことを求め、森の回復を切望するようになる。かれら、われら、すべてが出てきた母胎を。こうして、森を取り戻すかのように、空にむかって純粋な成長性のかたちとして築かれたのがゴシックの聖堂群だった! 信じがたいほどの巨大さ、荘厳さ、高さ。たとえばこんな記述には、ほんとにびっくりだ。「ゴシックの大聖堂は中世の社会が神の国と総合的に交われる唯一の場であった。都市に大聖堂は一つしかなく、その一つの巨大な建物にしばしば都市の全人口が、場合によっては農村域を含めた司教区全体の人口がきれいに収まった。例えば当時人口一万だったアミアンの市民は全員アミアン大聖堂に入ることができたし、シャルトル大聖堂には五千人のシャルトル市民全員のほかに近隣の農民たちも入ることができた。」地域の全員が一堂に会し、さあ、ここが神の国だといわれれば、その祭典の迫力は現代のどんな野球場サッカー場よりもはるかに上だったろう。恐るべし、キリスト教ヨーロッパ。そして本書はその西欧が、背後で抑圧してきたものも十分に論じてくれる。
「良心的」 ★★★★★
本書を記した、酒井健氏は、あと書きで、こう述べている『…歴史家のアンドレ・ヴォシェは、建築様式から大聖堂を論じた研究はきわめて多いが、数世紀にわたる宗教・社会・文化の視点から大聖堂を考察した試みは皆無に近いと嘆いている。拙書がこの空隙をわずかでも埋めることができるのならば幸いである。』 (p234)と。この引用が示しているように、本書はゴシック建築の大聖堂の様式についてのみ、論じたのではなく、その誕生から、受難、そして復活までをたどりながら(副題にあるがごとく)、精神史を示してくれている。

 本書はとても良心的。それは複雑な構成を排し、すっきりとまとめられ、地図や図版・参考文献も示され、なおかつ、前書きでは丁寧に、著者の問題意識が述べられている。文体も滑らかだ。

 これだけの質の書物にはなかなか巡り会えない。本書の主張の軸を見出す鍵は、「時間」と「中世はキリスト教の盲目的信仰一色の時代である、という一般的テーゼへの、疑問と反論」の二点にあると、小生は感じている。先の引用が成功していると感じられる本書を、広く、柔軟に、物事を見つめなおすことの好きな方に、一読してもらいたいと感じた。
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