聖なる哲学者、哲学する聖人
★★★★★
下巻は上巻での思い出を綴る内容よりも、もっとアウグスティヌスの現在の内面が露出されています。
さまざまな誘惑についてや時間論、創世記冒頭の記述などについて、ちょっとだけ他人の意見も交えつつ、持論をあらわしています。
「告白」という題名は二重の意味があると思いました。上巻ではキリストを信仰しなかった過去の事情について、犯してしまった恥ずべき体験まで含めて暴露するという、ある種の懺悔録(お詫びの記録)です。
けれどもこの下巻は、より一層神への賛美の深みが増しているとともに、アウグスティヌス自らの世界観を具体的に示しており、万物の創造主へと語りかけながらも、実際には、信仰を確立した自分自身に対して、聖書の記述に基づいた考え方を確認している独白録です。
情報をいっぱい詰めた論旨が明解の現代の本と違って、アウグスティヌスの思いの丈をいっぱい詰めた書物なのですが、わかりづらい部分がある分、時間を置いて繰り返して読めるものだと思います。
アウグスティヌスの『神の国(神国論)』のほうがローマ帝国の歴史に沿って書かれているので、イメージしやすいのでしょうが、読書には「理解する」ことがすべてではなく、そのひとの書き方・考え方の流れにどっぷりつかるということが本格的な楽しみ方ではないかなぁと、多少の分かりづらさを許してあげたくなる一冊でした。
アウグスティヌスの個人的な考え方がしっかりあらわされているようで、私はどっぷりと心酔して読み込め満足しました。
下巻ではアウグスティヌスの哲人魂が炸裂する
★★★★☆
上巻は「我はいかにして基督教徒となりしか」という自叙伝だが、下巻は「我の信仰はいかなるものか」という哲学書。聖書は「単純でつまらない」と思ったほど、プラトンやキケロに心酔したアウグスティヌスの哲学者魂が炸裂する。(ストラザーン「90分でわかるプラトン:青山出版社」によればアリストテレス以来最大の哲学者)最も驚くのは、「時間の無い世界」を想定し、「時間も神が創られた」と説明していること。時間の無い世界が実際に存在したと考えるアウグスティヌスの想像力はすごい。また、最後の「解説」でアウグスチヌの著作が現実世界で死の直前まで直面した問題に対する闘いの「武器」であったことが解ります。でもやっぱりこの訳の文章では論証の展開がつかめないし胸に迫ってこない、という訳で、私は宮谷宣史訳(教文館)を新たに買いました。値段十倍弱ですが、解る文章なので、その価値は比較になりません。
ふっきれた!アウグスティヌス
★★★★★
ふっきれた!アウグスティヌス
告白(上巻)の
迷いや憂いはなんのその
司教となった彼は
ただひたすらに
神への賛美をストレートに謳い上げます
ただ一つ
神への道にすすむため・・・
その道標がここには(下巻)
しるされている
ここまで告白できる彼は
正直言って
ス、スゴイよ〜
物理的哲学
★★★★★
アウグスティヌスが自らの子供時代以来の生活を、カトリックである現在の視点から省みつつ語った上巻。
それに対して下巻では、自伝的な内容よりもむしろ、哲学的思考が中心となっている。
しかし、これがおもしろい。若かりし頃のエピソードを語る上巻よりも退屈かな、と思ったのだが全くそんなことはなかった。
例えば、記憶について。忘却するとはどういうことなのか?忘却しても、人に教えてもらうなどして、
「あっ、そうだ!それそれ」とわかるからには、100%消え去っているわけではないのではないか。
それから、称賛について。人から褒めたたえられることを追求しては傲慢だが、かといって称賛されなくなるためには、
堕落した悪しき生活を送らねばならない。また、欲望などを失うのがどの程度つらいのかは、捨て去ってみて初めてわかるのに、
やはり、称賛を捨て去るには良くない生活をするしかない…しかし勿論そうする訳にもいかない。
また、時間について。現在、過去、未来とあるけれども、未来はまだ存在しないのか。「現在」はどんどん過ぎて過去になってゆくが、
それはどういうことなのか。「この一年」のなかにも、「今日」のなかにも、「この一時間」のなかにさえも、過去現在未来が含まれる…
このように、私たちも身近に考えることの出来る問題について徹底的に考察されているので、
なるほどなあと思わされる記述が多くあり、興味深く読める。
後半は創世記の解釈、特に天地創造についてを延々と述べる。比喩的解釈が多数展開され、聖書を知らない私には難しい部分も多かった。
巻末に詳しい解説と索引つき。訳文はところどころとても難解だがじっくり読めばわかる。
時間―心―三位一体(人間存在)
★★★☆☆
時間においては、第十一巻第二十章において
過去の現在=記憶
現在の現在=直覚
未来の現在=期待
とありますが、これらの定義はもともとは「心」のあり方に起因していると思います。
それゆえに、この三つの時間に対する考えも「これらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外にわたしはそれらのものを認めないのである」とあります。
なぜこのようなことを述べたかは「考える(cogitare)」に由来しています。この部分はかなり重要な事柄だと思います。なぜならば、デカルトが用いるコギトと、アウグスティヌスが用いるコギトは異なっているように感じるからです。アウグスティヌスが用いるコギトは、アンセルムスの「汝は知解せんがために信ぜよ」(crede ut intellegas)のintelligereに近いものがあります。
それは別問題としまして、「考える」=「思惟によって集まる」は、
「集める」(cogere)―「考える」(cogitare)
「動かす」(agere)―「騒がす」(agitare)
「なす」(facere)―「営む」(factitare)
の関係と同じだと指摘しているとおりです。
人間規定の存在も、三位一体の関係から論じられています。
人間に見られる三位一体の象徴―それが存在・認識・意志の適応を見ます。
「わたしは存在し、認識し、意志する」
第十一章にも見て取れるように、認識の原理を最終的に「神の御言葉」に求めて真理を把握できると解しています。