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「創造的である」ということ〈下〉地域の作法から (人間選書)

価格: ¥1,700
カテゴリ: 単行本
ブランド: 農山漁村文化協会
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ローカルな思想によるこれからの社会構築 ★★★★★
備忘録的メモ
2001年、2002年の農家の方たちとの勉強会、2002年と2004年の会合での報告をまとめたもの。

21世紀への想像力
自然の恵みを受けられなくなる社会をつくってはいけない
農業をはじめとする一次産業が滅ぶような社会をつくってはいけない
手仕事の世界は残さなければいけない
暮らしをつくる労働を残す必要がある
人間はつねに共同性の世界を必要とし、そうである以上、共同性の世界はつねに再創造されつづけなければいけない
すなわち数値目標的な未来でも、具体的な到達目標が定められるような未来でもなく、どちらかといえば散文的に語られる未来になっていることです。

アメリカに対しては文化で比較し、途上国に対しては文明論を持ち出し、日本国民の優越感を無意識に確認する危険性。――−慎重に文化論を展開する必要性
風土が作り出す価値、長い時間蓄積から生まれてくる風土的な価値のようなものを表現する言葉が、文化と違う言葉として成立していればよい。

今日で言えば、IT革命が未来を開くとか、インターネットに乗り遅れたら進歩から取り残されるといった精神世界に人々を巻き込んでおくことが必要なのであって、中略 もっとも今日では、この進歩史観に巻き込まれるのは、そろそろいい加減に終わりにしたい、という感覚も広く芽生えてきています。とすると、そのとき、何を進歩に変る価値基準にしてものごとをみたらよいのか。私はここに、「長く続いてきたもの」を設定するのです。

「進歩」や「効率」、「人生のスケジュール」に追われるばかりの社会、「時=刻」を失って「時間」を消費するばかりの社会、さらに「合理性」だけに支配された社会から、はたして「物語」など生まれれてくるのでしょうか。あるいは「深めていく」喜びを失った社会から、「物語」は生まれるのでしょうか。

小さく生きることの深さとその奥にある世界の大きな広がり、「作法」の中に表現されているその地域で暮らしていた人々の思想を考えたり、「総有」の世界がつくりだした人間たちの思想を考える。そこにある論理化できない思想をつかむ。
社会変革の動機としての「アキる」
いままでの働き方や価値観にアキた、そんな人々が徐々に増えてきたのではないか。

有用性の総有と「半商品」
総有とは私的所有物なのに、みんなのものという所有形態。半商品は市場で売買されているけれど、それを作る側も購入する側も商品であることを越えた使用価値を見出している。たとえば産地直送商品、職人や芸人の世界。商品生産の合理性がしばしば無視される。

フランスの農業政策 直接所得保障政策(環境保全のために特定の農薬を使わない、牛の数を減らすなどで減収した分を補償する) 補助金ではない。

山上がり 上野村で昭和20年代くらいまであった。借金などにより生活苦となると山に入り(誰の山でもよい、山上がりを宣言した人には集落や親戚は十分な味噌をもたさねばならない)その間に青年や中年の男が都市に出稼ぎに行き金を持ち帰り借金の清算をする。家族の危機を共同体が救済する仕組み。

近代思想の特徴は、人間の本質をその個体性、個体的理性におく、つまり関係的存在をとらえられない、その意味で個人主義に、またそれは人間のための思想、つまり自然との相互性をとらえられない、その意味で人間中心主義であった点に、さらに科学こそがすべてを明らかにすると考えた科学主義に、また歴史や進歩・発達としてとらえる発達主義にあったと考えています。

ローカルな世界に軸足を置くこと。
かつての地域社会という意味では共同体の世界というものは、その風土のなかに身をおいていると、自然にわかることがたくさんありました。そういう多くのことが、理論的ではなく、そこに暮らしていると何となくつかめる、ということです。身体が教えてくれる、あるいは風土が教えてくれる。

ローカルな思想としての教育、中央集権の教育
全員に自分の役割が見える「小さな世界」 大きな世界に出て行くことが知的で立派だとういう時代からむしろ小さな世界に帰っていくところに立派な人間のあり方があるのでは。
学校教育はもしかすると何かを壊しつづけているのかもしれない。学校の教員のなかに、「自分達はもしかすると地域を壊し、自然を壊し、『非文字の学問』を壊しつづけているのかもしれない」というような気持ちが生じたときに、学役(ママ)教育も初めて何かをなしうるのではないでしょうか。