印象深いところは、尾崎放哉の俳句に「表現に見離され、失語に陥りかけていた」ところを救われたと吐露し、また、歌人岡井隆の「男歌」に魅了されたと語る「うた」の章において、社会学者やフェミニストという立場を越えた、「文学」あるいは「言葉」と対峙する個人としての著者が立ちあらわれている点である。作家作品主義に阻まれた既存の文学評論や、男性中心社会を敵視する旧来のフェミニズム批評からも飛翔した本書は、『成熟と喪失』が著者の言うように「同時代の文学を論じて時代と社会の深みにとどく文明批評」であるのと同じ意味で、優れた文芸時評として成立している。
『男流文学論』は、著者が語るように「フェミニズム批評が『文壇』という池に投げた石」であった。本書はひとりの人間として上野千鶴子が文壇に投じた一石である。(中島正敏)
「それだけでいいのかなぁ~?」
と疑問に思っていたので、かなり面白く読めました。
※「作品主義」→大雑把に言うと、純粋に作品のみとりあげ、そのなかで解釈していきます。
私の考えでは、良い作品と言うのは、「才能」だけでなく、「時代性」も
必要なわけで、「時代性」を持っている作品を取り上げ、
社会学的に整理していくのは、別におかしなことではないと思うのです。
圧倒的に面白かったのは、「おんな」の項です。
特に、「女装した家父長制――日本の母の崩壊の章」はとりわけ面白かった。
「連合赤軍とフェミニズムの章」も一切、全共闘時代を知らない私が読んで面白く、
「連合赤軍事件」「永田洋子」を検索し、その記事を全部読んでしまうほど面白かった。
彼女の、文壇に賛否両論を巻き起こしたという、「男流文学論」も読んでみたくなりました。
解説の高橋源一郎さんも「上野さんは人を切る分だけ自分も傷ついている」といわれていますが、そんな感じが伺える本です。
常々“ことばは生き物、言説が社会を変革する”と主張される先生は まず明治期“言文一致体”の分析から始まって“平成言文一致体”、男ことば女ことばの変遷を見て行きます。
“性別規範がおんな言葉の側から解体を遂げつつある”
確かに女ことばより男ことばは自己主張性に勝れているのかも知れません、女が男ことばで男と対等に渡り合う事に何らかの意義が有るのかも知れませんが、女学生たちの画一化された男ことばを聞くとき、女が男の言葉を奪い取った事で、社会を変革するどころか何か陳腐な言葉の弱さのみが残された気がします。
2.連合赤軍とフェミニズムの章。
もはや昔語りとなりましたが連合赤軍の中で女の取り得た二つのオプションが示されます。
男に尽くし愛される“かわいい女”になるか、それとも男の価値を内面化して男なみの女になるか。
勿論“男なみ”にはなりたくない先生は いずれの道も拒絶されますが、では男支配の論理から脱皮した女の論理とは何か?男ことばをこよなく愛され、別の著作で男の好きなあの“4文字熟語”を教授の権威でバシバシ乱射された先生の女の論理が 私の勉強不足かも知れませんがこの著作からはちょっと伝わりませんでした。
3.女装した家父長制――日本の母の崩壊の章。
安岡章太郎“海辺の光景”・小島信夫“抱擁家族”・土井健郎“「甘え」の構造”・古沢平作(小此木啓吾)“阿闍世コンプレックス”などの分析を通して“恥ずかしい父”対“失望した母”・“ふがいない息子”・“ふきげんな娘”の“日本型エディプスの三角形”が抽出されます。
“父の不在”と“母の優位”が しばしば“母性支配”とは全く異なる事、“自己犠牲する母”の名の元にかくされた“女装した家父長制”である事が暴かれます。
父の意を体した“母の支配”は所詮“母”による家父長制の代行権力行使にすぎず、その陰で“不在の父”はにんまり笑っている。
しかし もはや母は叛旗を翻す、役割を放棄し家族は崩壊する。娘たちはますます不機嫌になる。
“母親らしくない”母に育てられる事で起きる“日本人の倫理観の危機”をめぐる問いなど、犬にでも食わせるがいい。教授はカカと大笑します。成るほどこれは教授の威勢の良い脅しでもなく、現実に起こっている事態です。それでも情けないかな オレはブツブツ言うしか能がない?
オレは家族を修復出来ない“恥ずかしい父”だけど“家族”まで奪われる罪を犯したのか?
そしてオマエは何処に行こうとしているのか?父性原理を拒絶し母性原理を拒否した彼女たちは自分が産み落とした家族を捨てて何処に行こうとしているのか?
せめて芥川賞の綿矢さんの様に背中を蹴とばす程度にしてくれないか?
なおも教授の大笑だけが響き渡ります。
文学/文芸批評が、正統な存在としての「日本の母」とその消滅を語るとき、それらは、消滅した存在の正統性とともに、この二項区分の「土俵」である隠蔽された家父長制をも承認している。この隠された家父長制が「女装した家父長制」である。
「恥ずかしい夫」「自己犠牲する母」「情けない息子」「不機嫌な娘」という産業資本主義下の近代家族的配置のなかで、母は不在の夫になりかわって(正確にはその意図を実行するだけだが)息子のパーソナリティ形成過程に介入する。こうした家父長制を文学/文芸評論は前提しているのだ。
そして精神分析と日本文化論のミクスチャーが、普遍理論の装いのもとでこの配置を保障する。
かくして、文学/文芸批評と精神分析がひらく言説空間のなかで「日本の母」は(その消滅を宣告されつつ)仮構される。
上野の手際はすばらしくあざやかで爽快だ。そして、最後のほうにでてくる
「母親業の放棄?父親業をとっくに放棄したオトコに、そんなことをいう資格はない。倫理?そんなものは犬にでも喰わせろ。」
みたいな啖呵(うろ覚えだけど)を読んでスカッとするのは私だけではあるまい。
数十ページの論文でこれだけのことができる。以前単行本で読んで感動したのを思い出した。
こんな論文が入っている本が文庫で手軽に読めるなんて、しあわせだと思いませんか?