“人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう”
★★★★☆
著者の田中智志は教育学者である。そして、ミッシェル・フーコーは「権力テクノロジー」の有力な制度のひとつである学校を批判検証してきた哲学者だ。
田中のスタンスは、フーコーの統治論、規律化論によって批判対象となる学校・教育について、いまひとつフーコーの「存在論」を提出することでその教育思想を導き出そうとする従来稀有なものである。然るに、本書の眼目は「自己創出支援としての教育(喚起としての教育)」を核とする教育へのフーコー哲学の貢献を説くことにある。
そうすると、本書は「教育」に限定された特殊専門的なフーコー存在論というものになるのだろうが、それだけにはとどまらないと思われる。明晰な文章と各章(主体論、言語論、規律化論、装置論、啓蒙論、倫理論およびエピローグ「教育を支える関係性」)の構成は、教育に収斂する結構を持ちながら優れたフーコー思想の入門ともなっているからだ。
評者は従来、桜井哲夫の『フーコー』(講談社)がフーコー入門の第一のものと考えてきたが、その後の講義録の刊行と後続する研究によって、桜井書は最早古くなったという意見をよく目にする(評者にはその判断は出来かねる)。この点においても、本書は講義録をも含めた論述であることが参考文献からもわかる。
フーコーの文章には、ときに痛切な忘れられない一節が交じる。“人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう”もそのひとつだ(本書で初めて知った)。評者の理解レベルはハッキリ言ってその程度だが、「人間」なる概念を批判するフーコーの思想は実にしぶといものであることだけは判るような気がする。
哲学とは無縁の“普通”の生活を送っているだけでも、それは腹に来る言葉であり、苦悩に寄り添う思想であるからだ。桜井書にあった「生きることはどうしてこんなに苦しいのだろう」は、多様なレベルを含みながらも一貫して思想や哲学の在り様を問い糾す言葉ではないだろうか?