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ゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考える

価格: ¥2,730
カテゴリ: 単行本
ブランド: エヌティティ出版
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創造者神の聖書的絶対性を否定することで、神は実在しないのに等しい。妥協です。 ★★☆☆☆
【有神論進化論】 = 無神論進化論で もはや創造者神の存在を否定することは困難となった。そこで、進化論46億年説の頭に創造者を加え、聖書的絶対性だけは認めない というのが有神論進化論の精神。つまり、創造者神の聖書的絶対性を否定することで、神は実在しないのに等しい、よって、絶対的創造者神の存在を否定する本来の目的と変わらないのである。いわば、妥協である。(要注意)

また、進化論を否定する=科学を否定するという言い方に大きな誤解はある。進化論は科学ではなく仮説なのです。議論をすり替えてはいけません。

簡単に整理しますと:

【仮説】「進化論」と「創造論」両者とも: @仮説(科学的に未実証であるという意味ではそうです。) A同じエビデンス(化石、地層、遺伝子等)を見ている。

【科学はここから】上記の仮説の実証および実験するのが科学であり、結果、どの仮説に軍配があるのか焦点となる。

【結果】情報科学 および、分子生物学的にも、「進化論」=不可能なプロセスであると断言している。

【理由】
@進化論の大黒柱「突然変異」は遺伝子情報の自然増加が不可欠だが、突然変異はどれも複製失敗による、情報の欠落によるもの。

A仮に、カエルに鳥の羽のような複雑な構造と機能を与えるとすれば、何MB?の遺伝子情報の「自然増加」が不可欠です。「神は、その種類にしたがって、創造された。」聖書 ★1種類から突然変異が繰り返し起こり、何十億年も進化を繰り返し、人間が誕生したのではない

B「神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがい、翼のあるすべての鳥を創造された。」聖書 ★明らかに1種類から突然変異で全ての生物が誕生した物語への聖書の反論です。そして「神は見て、良しとされた」と続く

C「神は、海の巨獣、水に群がりうごめく全ての生き物、翼のある全ての鳥を、その種類に従って、創造された。神はそれを見て、良しとされた。−創世記」聖書 ★完璧に創造後、良しとされた。なのに、進化論者はその後46億年も進化し、人は今後もさらに異なる生物へと進化していくと暗示する。 

D有神論進化論者は、自分の子供に「神の愛のご計画に従い、あなたは猿から進化して来た。」と説明? ★「神はご自分の形に模って人を創造された。人を見て 良しとされた。」創世記 そして、あえて、人とは別に、全ての動物達をその種類に従い、創造された。動物達をも見て、良しとされた。と明言!

あなたはどっち?
@ 聖書の創世記を創造者神の誤りなき神の言葉として信じる
Aダーウィン個人の創造者への反逆心から生まれた創造者神なしで生命の起源を説明を試みる進化論と言う物語 (無神論者が飛びついた)
Bみんなに好かれたく、進化論の頭に神を加えた有神論進化論者
真摯に科学と信仰に向き合った良書 ★★★★☆
研究者でもありクリスチャンでもあるという立場から感想を書かせていただきます。

もっとも感銘を受けたことは、内容がクリスチャンにもそうでない人にとっても議論を起こしそうな話題であるゆえに、真摯に科学と信仰と向かい合い、客観的なエビデンスを丁寧に書かれていて、謙虚に自分の考えをのべていること、その主張の根幹に世界の人々に対する愛が感じ取られたことでした。
そしてもっとも学んだこと。それは、クリスチャンが冷静かつ正確な知識に基づくようなものごとの捉え方をしないと、誰かがキリストと出会い、信仰をもつときの妨げになる可能性があるということ。なので、信仰の本質的なことにふれない部分で心を閉ざし、現在の科学的認識に反することを「神の意に反する」とか言って、声だかに叫ぶべきではないということ。

この本を読みながら、ひとつの確信が強くなっていくのを感じていました。それは、科学を真摯に、丁寧にみつめていけば、いつかそこに神の指の跡を見いだすことができるという確信です。

残念な点は、次の二点。まず、有神論的進化論(神が天地を創造し、目的を持って生物を進化させて人類を誕生させたということ)をサポートするのがこの本のひとつの目的であるのに、一般向けの本なので仕方ないかもしれませんが、それをサポートする科学的エビデンスをもう少し多く記述してほしかったと思います。たとえば、創造論者が提唱している化石の年代の測定法の問題点についての反論があるなら(はっきりした反論はしていないがそれを臭わせています)、ちゃんと紙面を割いて説明すべきであったと思います。次に、「何を信じるのかは一人一人がよく考えて決めるべきだ」で”終わっている”ところ。
私も、誰かに聖書の話をしたりするときには同じように言います。でも、「そうなんだけど、でもやっぱり、私としては◯◯さんにイエス・キリストのことを信じてほしい。」と一言だけでも書いてもよかったのではと思うのです。
というのは、著者はキリストによる救いを信じていて、その他の方法では救いがない(つまり信じなければ神の裁きのもとに地獄に行く)ということを信じているはずなのです。この本を読めば、彼の心に人々の魂の救いを願うあたたかい心は感じ取れます。なにかの圧力があったのか、ご自身でそのように判断されたのか真相は不明ですが、そのような個人的な思いを書かれてもよかったのではないかと思うのです。それは信仰の強要ではなく、読者に対する真実の愛の表れだからと思うのです。

レビューにはふさわしくないかもしれないのですが、すばらしい本でありながらこれらの二点が個人的に引っかかってしまうゆえに☆4つとさせてしまいました。
クリスチャンに読んでほしい ★★★★☆
進化論と創世記を対立させて論じることがいかに無意味かを理解できる。
創世記は科学では無い。往々にしてキリスト教側からなされる進化論への攻撃は、最終的にキリスト教信仰に新たな汚点を残しかねないのではと個人的に思っていたが、著者はそのことを科学者らしく論理的に述べている。
プロテスタントの中でもかなり保守的といわれる福音派のクリスチャンの中で彼の主張はかなり特異なものだと受け取られているかもしれないが、その心の中にあるのは篤い信仰心である。
プロテスタント系教会のカルト化が問題となっている現在、彼のような視点は非常に重要であると思う。
無神論者にもお薦めの、コスモロジー探求の書 ★★★★★
輪廻転生というコンセプトを受け入れ得る文化的素地を持つ日本においては、神仏等の存在と、進化論とは、さほど相矛盾せずに受け入れられ得るのかも知れない。しかし、神がその手で全宇宙を創造したとするユダヤ・キリスト・イスラム的世界観と、進化論とは、相互に排斥しあうものである、と一般的に理解されてきた。

本書は、米国ヒトゲノム研究所の元所長であり、国際ヒトゲノム計画のリーダーを勤めた著者が、第一線に立つ科学者としての立場から、一般の人にも理解できるよう平易な解説を心がけながら、最新の科学的研究の成果に基づいたコスモロジーを展開。一方で、著者の個人的な信仰覚醒についても告白しながら、信仰者としての理解・信条と、叙上の科学的コスモロジーとが調和する接点を、探求している。その姿勢は、科学者としても信仰者としても、真摯・公平・誠実なものである。

本書を読むことにより、ゲノム・ビックバン・量子力学等の先端科学の基礎理解を得られるのみならず、普段漠然としか考えることのない宇宙観(しかも、科学的な意味あいのみではなく、何故我々はここにいるのか、という哲学的な意味あいも含めて)について、自分はどの立場をとっているのか、それは先端科学とどう関係するのか・矛盾しないのか、ということについて、すっきりと明快に整理させてくれる。唯一神を信じる者にはもちろん、そうではない漠とした(あるいは確固たる)無神論者にとっても、読んで損をさせない書だと思う。
ロジックは平凡だが真摯な姿勢に好感を感じる ★★★★☆
著者は指導的な分子生物学者で、リチャード・ドーキンスから宗教的な科学者(科学的合理主義と宗教の非合理主義のタブルスタンダードを用いている)と名指しで批判された一人。人間原理、聖書の解釈、奇跡をどう考えるか、進化理論と聖書など、ところどころドーキンスの批判を意識した構成になっていると思われる。

それ以外にもES細胞の研究利用についてやアメリカの進化論教育、創造論とID説、行動遺伝学など、宗教的科学者の信仰・宗教観・科学観について事細かに述べられており大変興味深い。ただし話題が広く自伝的記述もしばしば見られる分やや散漫。エッセイと考えるといいだろう。

ドーキンスの批判に直接答えている部分はわずかだが、かなりショボくてがっかりした。基本的には「ドーキンスが批判している神と自分達が信じる神は別」「無神論も宗教」というもの。信仰が非合理だという指摘には「トマスアクィナスら先人たちが合理的だと論証した」と述べるにとどまる。いずれもドーキンスが徹底して批判しているロジックの繰り返しで新しい部分はない。

隙間の神論に陥ったり、あり得そうもないことが起きたからといってすぐに奇跡だと飛び付いてならないなど、科学者らしい一面も見せる。結局のところ、証拠はなく、合理的でも論理的でないが「それでも私は信じる」ということなのだろう。本書を通じて科学者が非合理的な一面を持っていても別にいいのではないか思うようになった。

SJグールドもおおむね同じ視点から宗教と科学の関わりについて論じていたが、彼のように言い訳がましくない分(論理的には無理がある部分が多いが、著者の真摯な姿勢は伝わる)読みやすい。