しかし彼にはそれしかない。まるで表現するためだけに生まれてきた人間のようだ。安易な恋愛観と陳腐な自己演出に没頭し、つねに美術史上において自分がしめる位置に気をもみ、あとは自分以外の人間に対する強い不信をいつもかかえていたようだ。読みながら終始「可哀相だなぁ…」と思った。少なくとも才人特有の華やかさや、人間としての大きさははまるで感じられない。つねに彼は癇癪をおこしているか、不安に苛まれているかのどっちかだ。しかしそれはあくまでもこの本を読んで感じるイサム・ノグチへの感想で、本当は彼の人生にももっと楽しさや明るさもあったのかもしれない(そう、信じたい)。
著者は膨大な情報量でイサム・ノグチの人生を展開していくが、どことなく情報内容が片寄っているかに思われた。たぶん著者がイサム・ノグチの一面性にばかり焦点を絞って話をしているからであろう。また著者は「イサム・ノグチを分かってあげてほしい」とする反面で、「そんなに簡単にイサム・ノグチを理解させない」的に、読者を突き放す。そしてその方法論が一見イサム・ノグチを「孤高の才人」へと美しく昇華している反面、最終的には読者の奥にまで強烈に迫り得ない理由でもある。
「この人はいったい何を思い悩みながらこういった作品ばかりを創り続けたのであろうか?」とイサム・ノグチ作品には終始疑問が付きまとうが、この本を読んでその謎に少し理解が開けた感がした。イサム・ノグチの一つ一つの作品を年代順に追いながら、それぞれを制作した際のイサム・ノグチのコメントや当時の彼をとりまく状況、そしてそれをそれぞれの言葉で評した批評家や他の芸術家たちの言葉をこれほどキメ細かく拾いあげた辺りは、これはスゴイ業績だと思う。とくに、最後の方のイサム・ノグチが唯一認めた美術評論家キャサリン・クーの批評と、それを正当な判断としながら、あえてその裏をかこうとするイサム・ノグチとの無言の心理戦なぞは、この上なくCoolであった。
イサムは死の直前最後の恋人京子をともなって美術館にいき、アンリ・ルソーの「蛇使いの女」を眺めながら日曜画家で、税関に勤めていたような男が、中傷やあざけりに絶えながら、これほど素晴らしい絵を描くなんて…と、素直に表現者としての感動を示す箇所などは、深みと優しさに満ち溢れています。世界中の美術家たちのそれぞれに、こういった人間模様がそれぞれの形で存在しているのだと思うと、連中のスゴ味を感じざるえません。
多くの友人に囲まれ、また愛に悩み、しかし自分の信念を曲げずに
創作に取り組んだイサムの苦悩と喜びがつぶさに描かれている。
岐阜提灯を模した「AKARI」などのプロダクトデザインでも
知られるイサムの、全世界に散らばる大作の制作過程なども
スケッチされ、読み応えのある一冊。間違いナイ。
『日本社会は日本だけを見つめている。日本のアーテイストとしてやっていこうとしたら、世界的視点を放棄するも同然となる。』これは本文中のイサムノグチ自身の言葉である。国と言うものを外側からも内側からも見ることによって、他の人とは共有しあえない感情の中に生きる孤独。創造的な人間とは孤独であり、孤独の中に生きるがゆえに彼の創造したもの、その創造の過程を通して自分自身を発見し、この宇宙の中での存在の意味を見い出そうとするのではないだろうか。彫刻家イサムノグチ、彼の創造の源とは、まさに出生から孤独の淵に立つ、自己を見つける旅にあったように思う。日本文化の本質が香る西洋の彫刻作品、西洋文化のモダンさを感じる日本の彫刻とは、イサムノグチ、その人そのものの姿であり、異なる文化の狭間にある孤独が生んだ芸術の結晶なのではないかと思う。そんな孤独が取り持つ魯山人との交流や、李香蘭こと山口淑子さんとの出会い、そして生涯の右腕となる和泉政敏さんなど、その他各国各界の様々な人々との交流も興味深い。