過剰現実主義
★★★★☆
シュルレアリスムの訳語は「超現実主義」。だから現実を超えた「向こう側」の世界を描くのだ…という理解は、本書によると誤りらしい。
シュルレアリスムにおける「超」とは、どうやら「あまりにも〜すぎる」というような意味合いのようだ。
よく、中高生などが「あいつ、超すごくね?」という時の「超」のニュアンスである。
我々がふだん「これが現実」と思って生きている世界は、実のところさまざまな約束事、制度、フィクションに満ちている。
それは、むしろ我々が現実にふれることを妨げているような何かであるといってよい。
そうしたベールを取り去って、あらわな現実、剥きだしの現実を追求する試み、それがシュルレアリスムなのである。
だから、訳語としては「過剰現実主義」、もしくは「極端な現実主義」ぐらいに落ち着くことになる。
では、そのように過剰な現実とはどのようなものなのか。
たとえば、「自動筆記」というシュルレアリスムの技法によって書かれた文章では、「わたし」という通常あるべき主語が著しく減退するという。
そのかわり、無人称的な「それ」のような主語が登場してくる。
(英語のIt rains. という時の、日本語では訳さない「It」のような主語だ)
また、「○○が〜する」という主語+述語の形さえもとらなくなり、
ただ「もの」から「もの」へと語が連鎖する、いわば自由連想に近い文が現れるという。
「わたし」が消え、「もの」がごろりと現れる。
まさに、「オブジェ(もの)=客観」主義としてのシュルレアリスムである。
論理の展開に違和感が…
★★★☆☆
国立新美術館で開催されたマン・レイ展(2010年7月14日〜9月13日)を観て、シュルレアリスムとは何か興味を持ち、本書を読むこととしました。
「シュルレアリスム」「メルヘン」「ユートピア」が何かという三部構成から成る本書、わかりやすさは認めますが、冒頭の部分で、違和感を覚えてしまいました。
【写実主義について】
一般に流布している、「シュルレアリスムは写実的表現を否定している」ということへの反論として挙げているのが、ダリの「パン籠」という写真のように精緻な作品です。
しかし、通常、ダリといえば、「記憶の固執」という「ぐにゃりとした時計の絵」ではないでしょうか。
この絵が「写実的」なのか説明してくれないと、一般の理解は得られないと思いました。
【客観的な表現について】
「シュルレアリスムは主観による自由な表象だ」という一般的理解への反論として、「自動記述」という手法を挙げ、何も予定せずに書くという行為を進め、スピードが速くなると主語や動詞がなくなり、オブジェ(客体)が表現されることから、「客観的世界」が生まれるという説明でしたが、ここにも違和感がありました。
私は若い頃に法学を学びましたが、そこでは(きわめて概略的ですが)、主観とは法律行為の当事者又は関係者の判断のこと(内面的意思)であり、客観とは第三者の判断(行為や結果がどう見えるか)のことを指します。
私の場合、このことが刷り込まれているため、自動記述のように自己の内面を掘り下げていった場合、例え自我が排除されるほど掘り下げたとしても、やはり主観の域内のことであり、客観を得るには外的要因・外的事象を取り込まなければならないのでは、という風に考えてしまうのです。
学問分野や学説により「主観」「客観」の捉え方に差異があることは承知していても、長年に亘り行動規範としてきたことですから、どうしても違和感は拭い去れませんでした。
「いわゆる現実」を相対化する思考
★★★★★
シュルレアリスム・メルヘン・ユートピアという、著者(話者)いうところの「三題噺」を明快に語り説いた一冊。いずれも通説が誤解され曲解されていることを教えてくれ、本来の意味合いとその射程を示してくれる。とても読みやすく、理解しやすい。
読み終えてから考えてみると、その三つのいずれもが自明の姿を仮装する「いわゆる現実」を強烈に相対化する効き目をもっている事に気づく。以前シュルレアリスムの著作を読んだときの違和感は、著者の思考や感受や表現の速度の変容や、視覚的・空間的感覚の拡張に由来したものだったのかと思うとすっきりするし、メルヘン的な世界把握、ユートピアのディストピア性、どれも従来の「いわゆる現実」と同じ根源を持ちながらも斥力をはたらかせるように拮抗している。「あとがき」で、著者はその論題の選択に当時の日本への批判の意図があったことを示しているが、今読んでもその批判は古びていないどころか、より切れ味を増している印象がある。
しぶとくしたたかな「いわゆる現実」に亀裂を入れる思考が満載の書。
「超」現実主義
★★★★☆
20世紀の最初にして最大の芸術運動「シュルレアリスム」。
本書はそのシュルレアリスムの中心人物であるアンドレ・ブルトンの研究者における「<正しい>シュルレアリスム」講義。
講演を字に起こしたかっこうになっているため、表現がやわらかく、わかりやすい。図版とともに、丁寧な註が下段にはつ
いている。
「シュルレアル」のシュルというのは、日本人の我々にとってはお笑いなどでよく使う「シュール」という言い回しのほうが
なじみ深い。このシュールはもちろんシュルレアルからきているのだが、元来の意味は日本のそれとは異なっている。
超現実。それは現実を超えたところにある、現実と全くの「別物」、ではない。シュルレアリストたちが挑んだのはあくまで、
我々が存在する現実を描くことであり、彼らが描こうとしたのはその現実が時折見せる、まか不思議な別の一面の表象である。
別にそれは「異世界」や何かではない。
講演は「シュルレアル」「メルヘン」「ユートピア」三回に分かれていて、この三つは何も独立しているわけではなく、
筆者曰く三位一体である。加えて、そのどれも近代文学のキータームである。シュルレアリスムの段と同様に、他の二つ
の語についても、日本人特有の「勘違い」を指摘し、文学を紐解きながら「そもそものメルヘン」や「そもそものユート
ピア」が解説される。
ずっと後になってから日本でコメディアンのタモリが、ふとした瞬間に誰もが迷い込んでしまう可能性がある「奇妙な世界」
のストーリーテリングをすることとなる。
アンドレ・ブルトンらが描こうとした世界。それは、我々がなんら疑うことのない現実と地続きの、そういった「奇妙な世界」
のさきがけだったのかもしれない。
分ったような気になります。
★★★★★
シュルレアリスムとは何か、メルヘンとは何か、ユートピアとは何かの三回の講演記録。特に、シュルレアリスムの項は、おそらく、誤解しているシュルレアリスムをわかりやすく解説している。人物では、アンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト。用語では、自動記述、オブジェ、コラージュ、デペイズマンがキーワード。また、脚注が優れていて、参考になる書籍や言葉の意味が紹介されている。
超現実と現実は繋がっている。ここでいう超は「超える」ではなく、超スピードの超の意味にとるほうがわかりやすい。「現実」と「超現実」との間は、度合いや段階の差しかなく、連続している。「連続性」がヒント。「いつも見なれたおなじ町を歩いていて、ふだんは気がついていないんだけれども、あるときその町がちがうふうに見えてくる、なんでいうことはよくあります。(中略)道ばたをふと見ると石がおちていて、それが不思議な形をしていて、思わず拾ってきたくなる。鳥なら鳥の形をした石があって、つぎの瞬間にまた別の出来事がおこり、そこへ鳥がとんできて何か奇妙な動きをするとか、そんなようなことは案外よくあるんじゃないか。そこらへんから『超現実』を出発させたっていいわけです」(本文27P〜28P)
なんとなくではあるが、シュルレアリスムが分かったような気にさせてくれる講演です。