民主主義を信じていない憲法、独善と強要と絶対主義を退ける憲法
★★★★★
本書では平和よりも前にそもそもの多数決や民主主義が問い直される。その帰結としての著者の答えは民主主義の否定ではないにしてもその限界を見据え、一定の制限を必要とするものと言えるだろう。つまり熱狂的な民主主義信者でなければ分かるように民主主義など少しも完全ではない。本書の始めに検討される諸々の多数決擁護理論も、どれもなんらかの欠陥を備えており全く完全ではない。憲法とはそもそも民主主義や多数決をそこまで信用していないのだ。民主主義や多数決が暴走し何かろくでもない決定をしてしまう、それを押さえる役割を持つものこそが憲法であり立憲主義というものである。本書からはそのような憲法観を受け取った。そしてそういった役割を担う憲法は是非とも必要なものに思われる。
立憲主義は民主主義を警戒するものであるが、同時に憲法は多様な価値観を共生させる所にその目的があると言われる。然るに憲法はある意味で絶対主義的だが、ある意味で絶対に絶対主義であってはいけない。何か無理のある一つの価値観やイデオロギーを強要するような事は基本的に許されないと言われる。この仕組みはリベラリズムのそれに似ている。「何が正しいか分からない、価値観が人それぞれであるからと相対主義の道へ向かう事を退け、異なる価値観が公正に共存しうる正義に適った制度を構築する立憲主義」著者が58頁でこのような事を言う時、立憲主義の位置にはそのままリベラリズムを代入する事が出来る。
著者はこのリベラルな憲法論に基づいて9条を根拠にした絶対平和主義を失効させている事に注目する。恐らく本書が改憲派などにも参照され、褒められがちであるのは、この事による。著者によれば9条を絶対視し、非武装中立を絶対視し、絶対平和主義を全国民に押し付ける種類の護憲派はそもそも憲法が多様な価値を尊重し、苛酷な独善的義務を強要しないという原則をおおいに侵している。私も非常にそのように思う。著者のような人がこの事を指摘し、絶対平和主義を退ける事は非常に良い事だと思う。私も長く著者と同じような事を言ってきたが不思議と日本の左翼は絶対平和主義とその強要に何の疑問も持たない。端的に言えば9条をやたら神格化し護憲護憲と言っているような輩は左でありながらにして少しもリベラルではない。もっと言えば自由主義でもないし、民主主義でもない。単なる9条なら著者も変える必要は必ずしもないと言っている。(解釈改憲でいいと)だが護憲派の中には本当に耳と目を疑う程の絶対平和主義者が多く混ざっている。だが彼らの言うような苛酷に過ぎる独りよがりの理想の押し付けは、繰り返すように多様な自由や価値観、生き方を認める自由主義や立憲主義にも反しているし、民主的な決定にすら抗うであろうという点では民主主義でもない。かといって右派的というわけでもない。左派的だがリベラルではありえない。何かというと、恐らく絶対平和主義的な護憲というのは「左の化け物」なのである。著者のようなリベラルな人からその事が言われた事は非常に有意義だ。
我々は民主主義も平和主義も信じすぎない事が必要に思われる。そして要るのは多様な価値のバランスある共生ではないか。無論その時には平和主義にも一定のバランスある配慮がとられるべきだ。多数決原理主義者や絶対平和主義を無邪気に押し付ける護憲派は、そういったバランスを著しく欠いている。
憲法の問題的思考
★★★★☆
この本の特徴は、
1、憲法の規定について、歴史、法哲学、政治学の理論などを踏まえて原理的に考えようとしている。
2、できるだけ価値的判断を排除し、理論的、論理的に分析する。
3、あくまで考えるための材料の提供である。
といった点にある。
したがって、この本は、民主主義や立憲主義、国家、人権などについて原理的に考えるための「考える材料」として有用である。民主主義、国家とは何か、なぜこれらが必要なのかを理解することは、憲法の理解の前提であるが、この本を読んで自分の頭で考えることが重要である。考えさせる本という意味ですぐれている。
他方で、この本では、憲法は民主政治で決めることを限定する枠組みであると述べてあり、憲法の価値を相対化している。その結果、「最終的に憲法の解釈は裁判所に委ねられるのだから、憲法を改正することには慎重な熟慮が必要である」といった歯切れの悪い結論が出てくることになる。このこの本には分析と解釈、論評はあっても「思想」がない。しかし、それは、「そういう本だからだ」ということになるのだろう。
「囚人のジレンマ」や「チキンゲーム」の理論は、しばしば政治学で引用される論理であるが、論理は「現実」そのものではない。憲法は、歴史的、思想的に、人類の価値判断、価値の選択の結果であり、必ず、どのような価値観、思想に立脚するかという点を避けて通ることはできない。憲法は理屈だけで論理的に生まれたものではなく、すべて、歴史の生々しい「現実」の中で生み出されたものである。憲法は国民の生活と密接な関係があり、国民は憲法の規定がもたらす結果を実際に受ける立場にあるから、現実に価値の選択に迫られる。したがって、憲法の規定の解釈は、論理や理屈だけではありえない。思想のない憲法はなく、価値観のない思想はありえない。平和の価値についても、論理だけで考えることはできない。それは、現実認識と、価値の選択の問題であり、理屈は選択した価値観の説明でしかない。「なぜ、戦争がいけないのか」は、「なぜ、人を殺してはいけないか」と同様に、理屈だけで説明するのは不可能である。それは価値観、思想、人間観、哲学の問題である。
全体を通して歯切れの悪さを感じるのは、著者の価値観や思想を積極的に出していないからである。この本は「そのような本である」と割り切ることが必要だろう。
論理的だけれど
★★★★☆
なぜ立憲主義が必要で、その立憲主義と両立できる安全保障制度とはどのようなものかを問う本書は、立憲主義の意義を説くことをメインとするもので、立憲主義と平和の関係をめぐる問いは、その応用問題ということになります。平和主義を扱う本のうち、本書のように立憲主義に紙幅を割くものは、そうは見かけません。まず民主主義について、長谷部教授は多数決という制度に遡ってこれを論じ、民主主義によって決定すべきでない事柄を明らかにします。社会全体として統一した結論を出すべきではない問題があるという前提に立ち、そのような問題については民主主義という枠組を排除するものとして、立憲主義が描かれています。立憲主義の内容と役割は、比較不可能な価値が共存しうる社会を作ることだと整理されます。そこで、公私の区分という手法によって、民主主義で対応すべきなのか、それとも立憲主義で対応すべきなのかが決定されるということになります。平和を維持するための方法として考えられる複数の方法について、それぞれ方法の主張者が暗黙の前提とする国家観・戦争観と方法との整合性、そして立憲主義との整合性が論じられていきます。結論として、本書は自衛のための実力組織を保持することを完全には否定しない選択肢を採用し、これを「穏和な平和主義」と呼びます。憲法第9条は、合理的自己拘束という観点から評価されることになります。民主主義による決定では、社会全体の利益に適うための条件が欠けるので、不合理な結論になる危険があり、あるいは各国が独自に軍備することは,軍拡競争を招くという予想などから、憲法9条による規制が不合理な決定の可能性を根本から否定して軍拡を抑制する役割を担うというものです。非常に論理的でたしかにそうだなあと思わされてしまったのですが、読了して一抹の寂しさを覚えてしまったことも否定できません。東大法学部の憲法学者が自衛隊を合憲だと主張することは、私がこれまで読んできた憲法学者の書籍からすると意外で、時代も変わったのだなあと思わされてしまいました。これが今の最先端の憲法学説のようですし、現実的な理論の需要があるということなのでしょう。
なぜ憲法を守ることが平和を導き出すのか、原理的な回答を冷静に議論する日本人必読書
★★★★★
憲法を少し勉強すると「立憲主義」という言葉に出会う。賢い受験生は「国家権力を制限し、広く国民の自由を保障する考え」と丸ごと暗記する。本書は、そんな東大「予備校」から機械的に官僚を産出するための本ではない。なぜ「立憲主義」という考えが生まれたのか?戦争と平和の関係にいかなる影響を及ぼすのか、さまざまな考えを持つ人が平和に共存して社会生活を営む基本的枠組みとは何か?について、深く怜悧で緻密な議論を展開する本である。憲法についての世界に誇る書物である。軽薄短小なお手軽憲法論がバカ売れし、国民もそれに浮かれているかのようであるが、今一度冷静に戦争、平和、憲法との関係について、本書のような透徹した論理を基にした議論を家族やサークルで共有して議論の叩き台にしていただきたい本である。友人にも是非お勧めして欲しい。ちなみに、憲法9条の政府見解は「個別的自衛権は許容されるが(自衛隊は合憲)、集団的自衛権は許されない(アメリカのお供で自衛隊を派兵することは違憲)」という立場であり、長谷部教授もその政府見解と同じ結論を緻密な議論により導き出す。9条=自衛隊違憲と勘違いされている方は、誤解を改めて欲しい。
しっかりとした論理の憲法解釈
★★★★★
この本は「平和」より「憲法」の方が主ですね。
九条は最後のほうで、なぜ立憲主義を取るのか、そもそも憲法とはどういうものなのか、などをきちんと説明している本である。
私は九条改正派だし、著者の護憲論には若干疑問があるのだが、それでも護憲派の著者の論は聞くに値する。
立憲主義、民主主義という、論議の土台になっている部分から問い直し、考えを構築していく。憲法学内のホープと言われているだけある。
以下は著者の九条論
著者は、まずゲーム理論により軍事的空白は戦争を誘発することを指摘する。
また、軍隊によらないパルチザン的な抵抗は、軍人と民間人の峻別を不可能にし、戦争を際限なき地獄へと至らせる。
その上で、九条は準則ではなく原理としてとらえるものだとする。つまり、例えば「表現の自由」が認められているからといって、他者の名誉を傷つけたりプライバシーを暴露するようないかなる表現も認められているわけではない。「表現の自由」を憲法改正することなく、プライバシーの権利を認めさせることはできる。同様に、九条も平和主義という一定の方向を示したものであって、文字通り「すべての」軍隊を禁じているわけではなく、自衛のための戦力は認められているとする。
そして、自衛力を持つためならば九条を変える必要はなく、むしろ諸外国に余計なメッセージを与える可能性があるため、改憲の必要はないとする。
ただ、私自身は九条解釈は著者のが妥当だと考えられるが、それによる護憲へはある一つのハードルがあると考える。
それは、すべての人が著者のような九条解釈を行う必要があるということである。
つまり、憲法上は自衛力は認められているが、国民の多くが誤解してそう思っていないならば、政府が自衛力を行使したときに国民の批判が高まり、本当は行使できるはずの自衛力が行使できない、またはしづらい状況になる、という可能性が大いにある。
そして、現在でも自衛隊を意見だとする政党が国会の議席を占めており、下級審とはいえ一度違憲判決が出たことがあるという現状を考えれば、そうした可能性への危惧は決して杞憂ということはないだろう。
著者は「憲法解釈を最終的に決めるのは憲法学者」と予防線を張っているが、政府が見るのは憲法学者の意見ではなくて国民の意見である。なので憲法学者がお墨付きを与えても、政府は国民の意見を聞くよりほかない。
ゆえに、現状のような誤解の多い九条は、いざというときに足を引っ張る可能性があり、変える必要がやはりあるといえるだろう。
九条論議に興味がなくても、憲法に興味があるのならオススメです。