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ホモ・ルーデンス (中公文庫)

価格: ¥920
カテゴリ: 文庫
ブランド: 中央公論新社
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文化の底にある「遊び」 ★★★★★
文化及びその他人間活動における遊びの重要性を論証した歴史的名著。

遊びの特徴としては
・何らかの目的のための活動ではなく、その行動自体が目的である
・ルールを互いに守る
・相手を尊重する
・競争的である
などが挙げられている。

そうした特徴を軸に、さまざまな文化活動を分析する。
読み物としても面白い。

そして、現代のスポーツ、ゲーム、戦争などにおいて遊びの要素がなくなる小児病に陥っていると警告を慣らす。
プロスポーツ、トランプ、殲滅戦などは、遊びが残っていた昔には考えられないことなのだ。


最後に目次を付しておく

文化現象としての遊びの本質と意味
遊び概念の発想とその言語表現
文化創造の機能としての遊びと競技
遊びと法律
遊びと戦争
遊びと知識
遊びと詩
詩的形成の機能
哲学の遊びの形式
芸術の遊びの形式
「遊ビノ相ノモトニ」見た文化と時代の変遷
現代文化における遊びの要素
1938年のオランダ人 ★★★☆☆
 本書がいう「遊び」とは、人間のもつ創造性の源とでもいうべきものであると解すべきものであると思う。たとえ著者が本書において広汎な言語学的・文化人類学的な知見に基づいて繊細な定義づけをしているとしても、それ以外の定義は不要であると思う。なぜなら、人間の創造性は元来アナーキーなもので、それに形を与えるのは不可能だからである。
 さて本書を読めば「遊び」の中に生まれた「文化」のうち、人間の経済に有用なものが「真面目」あるいは「日常」として、(経済的)合目的性を帯びて分離されたということがわかる。著者・ホイジンガは、19世紀以来、この「真面目」が肥大化して「遊び」すなわち人間の創造性を圧迫・従属させているかのように感じているようだ。ホイジンガはいう〈社会と人間精神のなかで経済的因子を過大に評価することは、ある意味では神秘というものを殺し、人間を罪業、罪責から解き放った合理主義と功利主義の当然の成り行きである。しかしそれと同時に、彼らは人間を愚かしさと近視眼的けちくささから解放してやるべきなのに、それは忘れていた〉と(P390)。
 要するに『ホモ・ルーデンス』とは、専制君主と化した「真面目」=経済から「遊び」=創造性を解放し、モラルへと向かう試みである。この1938年のオランダ人の目にはナチズムという「真面目」と「遊び」の不幸な結びつき(「小児病」)が映っていたのだ。しかし、その試みは肝心なところで古きよきヨーロッパを懐古するという誤りを犯している。罪から解き放たれた人間が、「遊び」ながら新たな地平を切り拓いたすぐ後から「経済」が追いかけてくるのが19世紀から現代へとつづく社会である。ナチズムとてそのようにアナーキーな歴史の文脈において「モラル(規律)」を回復しようとした試みであるといえるのではないだろうか。
スポーツは遊びの領域から去ってゆく...消えゆく遊びと小児病。 ★★★☆☆
 “私の心のなかでは、人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたのだ、という確信がしだいに強まる一方であった。(P12)”という著者。本書は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と題された。

 ホイジンガは“スポーツは遊びの領域から去ってゆく(P399)”とし、“現代社会生活のなかではスポーツは本来の文化過程のかたわらに、それから逸れたところに位置を占めてしまった。...スポーツは完全に泰献性なきものと化し...何か実りを生む共同社会の一因子というより、むしろただ闘技的本能だけの、孤立的な表れなのだ。(P399〜P400)”なのだと言う。

 ちなみに、『スポーツにおいては、身を鍛えることによって過去におけるすべての成績をはるかに上まわる成績があがっているという事実はたえず報告されているし、だれでも知っている。その一つ一つに感心したり、達成された記録に注目するだけでは不十分であって、その頻繁さがわれわれの気持ちに与える印象に注目しなければならない』と言ったのが、オルテガである。

 そしてホイジンガは、たやすく満足は得られても、けっしてそれで飽和してしまうことのない、つまらぬ気晴らしを求めたがる欲望。粗野なセンセーションの追求。巨大な見せ物に対する喜び。こうしたものを“小児病(P414)”と名づけた。

 そして“小児病に対しては遊びの形式としての性質を認める事ことを拒否しなければならないと思う(P417)”とホイジンガは言う。

 つまり、遊びが消えゆく事もしくは小児病という現象に対し、言わば警告をしたとでもいうのがホイジンガであり、本書だという事である。

 その示唆は、今の時代になっても薄らいではいないであろう。
眼を開かされる国際法概念 ★★★★★
 「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶヒト(種)」ということだが、著者は「人間と動物の違いは遊ぶか遊ばないかである」と言いたいわけではない。人間のさまざまな活動の中に遊びの精神がいかに深く根付いてその関わりが切っても切れない深さであるゆえに、読了時には「ホモ・ルーデンス」というタイトルの理由が納得されるのだ。
 本書はまず「遊び」の定義からはじまり、人間のさまざまな文化装置の中の「遊び」の側面に焦点を当てる。そして歴史上の各時代において「遊び」が占める割合を個別に検討してゆき、さいごに現代社会を遊びの観点から捉え直すという力作だ。スポーツ、芸術、学問の中の遊びの要素はいうまでもないと思うが、最も意表を突かれたのは「裁判」「戦争」そして「国際法」における遊び概念の重要さだ。裁判における法服やカツラの着用が「遊び」概念と関係がある、との指摘は大変興味深い。古代の戦争においては遊びの要素があったことは、例えば塩野七生や宮城谷昌光の読者にとってはおなじみであろう。問題は「国際法」である。ルールに従って一定の手順を進めるということは、共に「遊ぶ」条件であり、逆に、相手を野蛮人と認定した場合は国際法は蹂躙され、虐殺その他が行われるのだ。遊びは過度の残虐さを防ぐ重要な役割をしていると同様、現代の非道な戦争は相手を共に「遊べる」人間と認定していないがゆえに過度の攻撃性を発揮しているのだ、という指摘には眼を開かされた。戦争を、そして人間を見る目が変わる一冊。
難解だが、今の時代に読み直す必然あり ★★★★★
20年以上前に読んだ。難しい本である。が、内容は素晴らしいので、投げることなく最後まで読破してしまった。本書は「遊び」とは何かということを厳密に定義した上で、人間の様々な行動を「遊び」という概念から分析している。
全ての人の行為は「遊び」と定義できるのかもしれない。経済マーケットの投機が「マネー.ゲーム」と呼ばれるように。また、この「遊び」という概念から国際問題を眺めれば、一連の国際紛争問題の本質も見ることができるのである。少なくとも私にはそのように感じられる。「遊び」の中にある秩序を再認識することは、渾沌の現代に流されないために重要であると思われます。