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戦場の精神史 ~武士道という幻影 (NHK出版)

価格: ¥1,210
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: NHK出版
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「武士道」の既成概念を破る ★★★★☆
私自身かつて「武士道とは何ぞや」と興味を持ち、新渡戸稲造「武士道」を読んで、その内容になるほどと感心して納得し、そのまま基礎として受け入れていたのであるが、本書によってその「武士道」観は見事にくつがえされた。「武士道の幻影」という副題にあるとおり、基本的には、古典の戦記物語などから、合戦において兵士がどんな戦いをしたかの抜粋であるが、そこに描かれている兵士は、ある意味で、生き残ることが全てという、人間らしい行動をとっていた。つまり「だまし討ち」「ルール無視」といった従来切り落とされてきた「武士らしくない」行動を著者は見逃さずに、多くの資料から抜粋している。そして、それらから導き出す著者の論点が非常に冷静であり面白い。「武士道とは何か」という疑問に対して「明確な回答は困難である」と言い、新渡戸稲造の「武士道」を「あまり日本史に詳しくない新渡戸が自己の脳裏にある『武士』像をふくらませて創り出した、一つの創作としてよむべき」と、こてんぱんである。

とはいえ、本書の魅力は、そのような武士道論だけでなく、「人間と戦争」について根源的に、少量ながらも迫っていることだ。それが最終的に本書の引き締めの役割を担っている。ところで、私は読書中に、坂口安吾の堕落論 (新潮文庫)を思い出した。そこには、「武士道という無骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった」とある。なるほど、こういう視点からもう一度「武士道」とは何かを考えなおすことが、必要であると痛感した。
生き残ることこそが武士の本質 ★★★★★
武士道と言うと「潔さ」「死より名誉をとる」みたいなイメージが強い。
だが本書では、そうした「武士像」が全くの誤りであるといい、本当の武士の姿を見せてくれる。

武士は平気でだまし討ちをしていた。
敵のだまし討ちはもとより、味方を欺いて功名を得ることさえあった。
しかもだまし討ちに対して概ね肯定的な考え方が強かった。

だまし討ちに対する批判もあったが、それは「普段からだましてばかりだと、いざというときに信じてもらえない」というすぐれて実利的な発想からであった。
あるいはかっこいい戦闘も稀にはあっても、それはパフォーマンスとしての要素が大きいものであった。

だが江戸時代になり戦闘がなくなると、武士には戦闘の代わりに倫理的なものが求められるようになった。
その一つとして「死の美学」を描いた『葉隠』も書かれた。
(ただし『葉隠』自体は江戸時代にはあまり読まれず、明治頃から再発見されたというのが正しい)

その後の明治期に、今までの武士道とは連続性もない武士道リバイバルが起き、そこで書かれたのが例えば新渡戸の『武士道』であった。
男同士のさわやかな決闘に憧れがちな人に ★★★★★
ここのレビューを読んで興味を持ち、手に取った本だったが、非常に面白かった。軍記物語のほとんどを題名ぐらいでしか知らない私が読んでも、すいすいと引き込まれてページが進んだ。
古典を読んだとき、名だたる武士の大活躍を描く名場面が、どうもかっこ悪かったり、せこいと感じたことのある人はこの本を読むと腑に落ちるだろう。時代小説に描かれるような武士と違い、彼らは、決して、正々堂々とさわやかにりりしく戦っているとは限らない。また、根本的に、誰もが素晴らしく高潔な精神性を有しているのであれば、そもそも戦争が起きるわけがないような気がする。

武士の姿と武士像という言葉の表象のブレは、武士道という言葉が、反公家(朝廷)と皇室尊重、反儒教と儒教、反西洋と西洋文化、そして反道徳と道徳と、その場その時の線引きによって、包含するものを変えて流れから生じたことが解き明かされる。
この流れを踏まえていると、『葉隠』の特異性や、新渡戸『武士道』の断絶性が見えてくる。新渡戸『武士道』以降の武士像は、実態から離れた幻想を理想化したものと見極めると、これをもって日本の固有の古来の伝統の精神と標榜することの危うさも見えてくる。その危うさが見えれば、安易に戦争を美化する風潮の愚かしさも見えてくる。
「○○の伝統」は疑ってかかれ ★★★★☆
“武士道”がいかに実際の武士、特に江戸期以前の戦を戦っていた武士の行動原理からかけ離れているかを、古事記から近世まで豊富な例をとって論じた本だ。犬養先生に萬葉集の話と共に聞いた日本武尊のだまし討ち説話なんて、考えてみれば武士道もなにもあったものではない。そもそも、実際の戦いなんて、勝たないと死んじゃうんだから、「武士道は死ぬことと見つけた」ような価値観は、持ち主と一緒に絶滅するわけだ。結局、“武士道”というは『葉隠』以降。『葉隠』だって、江戸時代にはほとんど読まれなくて、武士がいなくなった明治になってから「昔は良かった」の材料に再発見されたものだと言う。いかにもありそうな話だ。

もう一つ驚いたのは、新渡戸稲造が "Bushido" を書いたのはアメリカで、ほとんど資料もなしに書いたことだ。結局、新渡戸の武士道というのは、歴史のレビューでも何でもなくて、彼の価値観(好悪)を書いたものに過ぎないのだ。

○○の伝統という話には気をつけないといけないという話を、最も典型的な武士道でこれでもかと示してくれるのは、なかなか面白かった。最近でも、「終身雇用は日本の伝統」だとか、似たような話は沢山転がっているので、気をつけましょう。

PS. これを読んで、新渡戸稲造がどうしてお札の肖像に選ばれたのかいよいよ分からなくなった。最近の野口英世と樋口一葉もあまり適切とは思えないし、福沢諭吉の重用も何となく釈然とせんし、いったい誰が選んでいるんでしょうねぇ。ちょっとばっかし気になる。
まさしく画期的な快著 ★★★★★
「明治の武士道は本来の武士の生き方とは異なる」

こうした議論は、他にも菅野覚明がものしている(『武士道の逆襲』講談社現代新書)が、これもまた勝るとも劣らない一冊である。

著者は『平家物語』を中心に日本中世文学を専攻する研究者であり、その素養をフルに使って、武士のリアルな生き様としての「だまし討ち肯定の論理」を描き出す。ただ、それは本書の価値の3分の1を占めるに過ぎない。その点を確認した上で、筆者の問いは「謀略・虚偽肯定論を当たり前の前提とした上で、そこには果たして倫理が成り立ちうるのか、成り立つとすればそれはどのような倫理か」と発展し、さらに「そのような武士の生き様が何ゆえにフェアプレイ精神のように解されるに至ったのか」を問うまでに至る。

これは、『葉隠』や新渡戸『武士道』を否定して済むような問題ではない。著者が最後で示唆するように、それは戦争一般、戦いや暴力そのものへの根源的な問いへとつながる。単純な「創造された伝統」論にとどまらない奥行きを持つ快著と言えよう。