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金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書)

価格: ¥3,800
カテゴリ: 新書
ブランド: 文藝春秋
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神を基軸とした経済思想史 ★★★★★
本のタイトルに
「金融恐慌」と「ユダヤ」というキーワードが入っているので、
つい、またユダヤ陰謀説かと勘違いすると損をする。

著者がはしがき冒頭で弁明しているように全くそんな
チャチな発想では全くない。

経済学を見てきたものにも、なるほどと思わせる個所が
随所にあるし、今ではたたかれることしかない竹中・小泉
流の「市場原理主義」が悠久の経済と思想の流れの中では、
「泡」みたいなものであったことが、よく理解できるであろう。

イスラム金融では、酒やギャンブル、銀行への投資を禁じていると
紹介しているが、これは、社会的責任投資の思想そのものであろう。
社会的責任投資―投資の仕方で社会を変える
SRI 社会的責任投資入門―市場が企業に迫る新たな規律

神という切り口で経済思想を解析したユニークさは知的好奇心を
そそるものであった。ぜひ一読を勧めたい。
根岸先生の根拠が知りたい ★★★★★
経済思想の背景にあるユダヤ・キリスト教の影響について論じられており、面白い。島田先生が経済思想史に造詣が深いとは知らなかった。一番気になったのは、根岸先生がアダム・スミスの「見えざる手」を「神の見えざる手」と述べているという件であり、私も「見えざる手」は「神の見えざる手」を意味しないという島田先生の意見には賛成であるが、根岸先生が先の考えを如何に採用するに至ったかは非常に興味をもつ点である。
日本企業のグローバル化って ★★★★★
日本の企業が例外なく企業のグローバル化を推し進めるようになりました。
私の会社でも事業がドメスティックなスタイルから「グローバル」へのスタイルへ少しずつですが変化しています。
ですが、「グローバル」とは何でしょうか?

世界には様々な背景をもつ国や人がいます。

歴史や宗教などが、その国の経済に大きな影響を与えています。
「コーラン」や「聖書」には、ビジネスに対する考え方も記されているそうです。
一言に「グローバル」といってしまうのは、イデオロギーも宗教も薄い日本人ならでは
の行為と感じています。
果たして、国内で成功したビジネスが海外で通用するのでしょうか?
単純に中国やインドのような人口が多く経済発展を遂げている国に、
物資を投入するだけのグローバル化では、長期的な成功は得られないのではないでしょうか?
その国や宗教について学ぶ姿勢を忘れてはならないと思います。

この本は、キリスト教、イスラム教の元になり、アメリカの金融ビジネスを生んだユダヤ教(ユダヤ人)を中心に、
国際経済とは何かを、宗教の切り口で解説している非常に斬新な内容になっています。

世界を考えるヒントにしてみてはいかがでしょうか?
強欲資本主義の原因を宗教に求める ★★★★★
昨年9月のリーマンショックの結果、アメリカ政府は巨額の公的資金を投資銀行に投入して救助せざるを得なかった。しかるに、それから僅か一年後に、救済された筈の金融機関の経営者たちは、またもや年間数億ドルの巨額の報酬を受け取り始め、オバマ政権の怒りをかっている。アメリカ金融機関経営者のかかる無神経な行動の根拠を、著者はユダヤ・キリスト教の一神教的発想に帰せしめている。
かたや、日本ではかかる無茶な経営者は見られず、経営者・労働者・株主などの協力によって克服しようとしているが、これは古来日本の社会が村落共同体として発展してきたことに、その理由を帰せしめている。
これまで、アメリカの金融恐慌に端を発する世界同時恐慌に関する解説書は枚挙に暇がないが、その理由を宗教に求めた書物は、初めてである。
著者は宗教研究者であるが、経済方面でも該博な知識を持ち、その論旨は終始一貫して筋が通っているので、非常に読みやすい。投資家にも一読をお勧めする。
経済学は神学です ★★★★★
これは面白い。この作品は自由だけではなぜいけないのか 経済学を考え直す (講談社選書メチエ)、やFalse Dawn: The Delusions of Global Capitalismと並べて経済学を最初に学ぶ学生にとっての必読本です。というのは、経済学のベースとなるものの考え方並びに型についての見事な解明を与えてくれるからです。日本人にとっては需要供給曲線や市場の自動調節機能やそれ自体を目的とした規制緩和なんて永遠になじむことのできない考え方なのです。経済学者にとって、もっと過激なのは、マルクス経済学と新古典派に代表される近代経済学の本質的な同一性という主張です。そう、どちらも基本的には現実の経済の「一面的」な分析とその道具の呈示にしかすぎないものであり、現実的な政策論としてはどちらも破綻しているのです。つまるところ新古典派経済学は神学(theology)なのです。はっきりしないそして永遠に証明できない存在(市場や絶対的な神)を仮説として仮構して議論を進めていくという演繹的なアプローチはまさにその通りです。そして日本の資本主義においては、「神」が存在しないのです。したがって、本質的な意味での、「強欲」は存在しないのです。ウォール街の金融関係者の顔を見てください。あのようなすさまじい「顔」は日本人には定義上存在し得ないのです。このような経済学の裏面に潜む真実を理解もせず、道具の一層の洗練に勤める学者、このよう特殊な世界観を背後に持つ「神学」の一派が政治的な利害の中で生み出した原理主義的な処方箋を、日本に当てはめようとした「流行の行商人」たちは、ピエロというか悪意のない「悪人」です。このような作品が、経済学者ではなく、宗教学者によって書かれたという事実は重いものがあります。