その点本書は、多くの先行研究が陥りがちな罠を免れた画期的な評伝と言えよう。もちろん、実に多くの関係者を尋ねて回った綿密な取材や上下2巻に及ぶ浩瀚(こうかん)な内容も大したものなのだが、それ以上に特筆すべきは著者の絶妙な距離感である。訳者あとがきでも述べられているように、これは自身アメリカを代表するゲイ文学者でありながら、一方で自分がジュネから愛されるタイプの人間ではないことを強く自覚していた著者の意識に起因するところが大きいのだろう。ジュネに深く共感しながら、しかし決して過度の感情移入に溺れることのない抑制の効いた筆致は、生前よく「作家は充実期の後に泉が枯渇したかの如き地獄を体験しなければならない」と語っていたというジュネの創作のダイナミズムを明らかにすることに成功している。とりわけ、囚人から作家へと変貌を遂げていく1940年代や、パレスチナ・ゲリラやブラックパンサーなどと深いかかわりを持った1960~70年代の記述は、その重厚さと繊細さによって読者を圧倒する。
かつては全集が刊行されていたジュネ作品も、今では数冊の主著を辛うじて文庫本で読める程度に留まってしまっている。本書の出版が、この貧しい書物環境を改善するきっかけとなるのなら、それは細々とした伝記的事実の解明という評伝本来の役割にもまして有益なことに違いない。(暮沢剛巳)