言語の力によって現実世界の価値をことごとく転倒させ、幻想と悪夢のイメージで描き出される壮麗な倒錯の世界 ― 裏切り、盗み、乞 * 、男色。父なし子として生れ、母にも捨てられ、泥棒をしながらヨーロッパ各地を放浪し、前半生のほとんどを牢獄におくったジュネ。終身禁固となるところをサルトルらの運動によって特赦を受けた怪物作家の、もっとも自伝的色彩の濃い代表作。
大好きな作品です!
★★★★★
ポジティブシンキング全盛の現代では
評価されないような、ネガティブな作品。
彼は徹底的に自分自身を蔑んでいるのですが、
しかしその蔑みの視点から
見える彼の「個」としての尊厳の輝きの美しさ、
世間から疎まれる存在であることに
妥協しない彼の心の高潔さって言ったらないですよ!
彼の人生の真実は苦しいものなのですが、
しかしそれを生きる(否が応でも生きざるを得ない)
彼はとても美しく、勇敢に思えます。
世界は不公平なものであり、誰もが思う通りに
生きられるものではない。
だがそんな世界に完璧に適応することこそが
成功だと言われるような現代の価値観うんざりしている人に
おススメです。
また彼の本は実存主義者サルトルにも取り上げられました。
現代の精神医学の視点から見ても、彼の物の見方は
興味深いものだと思います。私は専門家ではありませんが、
彼の自分自身についての描写は、解離性障害の人の
物の見方と似ているのでは?と思います。
泥棒日記
★★★★★
フランスの作家の書いた日記です。犯罪者、泥棒、無法者、男娼の書いた本です。その猥雑さ、、汚辱さ、自堕落さを書いた本で、人間の本質をさらけ出しているような本です。無為徒食の人間から見た世の中の姿も知ることができます。究極の極限状況の中で生きる者の考える深い思索がこの本の中には、あると思います。平凡な生活とはあまりにかけ離れているので、居心地の悪さは感じますが、あらゆる制約から解き放たれた自由な精神というものも感じます。大変奥深い本だと思いますが、難解かも知れません。混沌とした世界の中に、美学を発見している本でもあります。
ジュネの「裏切り」の美学について
★★★★☆
サルトルは「聖ジュネ」で、救いとしての文学表現を求める実存的存在としてジュネを解読してみせた。確かに、本書にはこんな有名な一節がある。
「さらに、わたしはよく思った、思惟する権利を持たずに思惟する人々があまりに多い、と。彼らはこの権利を、思惟することが自己の救済のために不可欠であるという底(てい)の事業によってあがなったのではないのだ」
でも、本書を普通に読んだ者には、ジュネが全くそんな安っぽい「救済」を求めるタマではなかったということが、よく分かるはずだ。サルトルはラカン的な意味でジュネの存在を言語で規定してみようと頑張った。そして、なんでか良く分からないが、ジュネもその試みに乗っかったようだ、というのが歴史的事実であろう。泥棒作家だったジュネにとって、コクトーやサルトルの支援は現世的な意味で必要なものだったはずだが、この安っぽいフィクションに乗ったこと自体、ジュネが愛した「裏切り」だったのではないかと、僕は夢想している。
ジュネはこの本を35歳で書いた。こんな老獪な文章を35歳で書いてみせたということに、彼の才能と、彼が送った前半生のキツさを見る。そして、この半生の総括というべき「泥棒日記」以降、ジュネは劇作家として蘇生し、自殺騒動を起し、ピントの合わない政治活動を幾つかやって、死ぬ。サルトルが激賞したことで、ジュネの人生は確かに救われただろう。でもジュネは、捕まった野生動物みたいな存在だったのではないかと思う。決して人には慣れない。捕まって檻に入ったら、すぐ死んでしまう。そういう人だったのではないか。
犯罪にも同性愛にも美学を感じない僕には、この本はちょっとダラダラ長すぎる嫌いがあったので、星を一つ減点した。
ジュネが騙る自伝的小説
★★★★★
ジュネは孤児として生まれた。恐らく幼少期、少年期の彼は埋められない淋しさを胸に抱いていただろうと思う。やがて少年のジュネは罪を犯し感化院へ入るが脱走し、暫くして軍隊に入ったがそこも罪を犯して遁走する。以後、牢獄と貧困と犯罪の中を、危険と疲労と何よりも絶望を背負い逍遥する。
そしてジュネは犯罪を重ねる中で仲間を増やしていく。ジュネの孤独の一角は溶け彼は仲間達や同じ階層の人間を愛するようになる。
けれどジュネの感性にとってその生活は辛いものだった。彼の絶望は深まっていっただろう。そこでジュネは彼が浸っていた宿命のような様々な悪に花を添える事を、無慈悲で且つ明澄なままに醜悪を修辞で綾なす事を、覚えていく。
それは一つの感受性の擁立である。だが彼は既存の価値秩序の変革を望んではいない。その道徳秩序の底辺でその惨めさをこそ美辞ですくったのだった。(P183で述べられてるように価値の転倒した社会では彼は己れを失うだろう)
もはやジュネは辱しめを、悪行を望む。醜行を身をもって知悉する事を通して一層醜悪を絢爛たる言詞で飾り、その醜悪の悲惨の重みを解放する為に。それは彼を更なる自由と自持と創造へと、また倫理的孤独へと押しやるだろう。彼はますます自己を純粋に確立するだろう。ここに彼の復権の業の動因があるのだ。
ジュネはこの企みの果てに何を求めていたのか。恐らく2つの重なり合う夢だろう。1つは自己救済。もう1つは聖性の獲得。後者が具体的にどんなものかは彼自身にも判然としていないようだ。ただあらゆるもの、例えば死の闇すら照らし得る明るい光である事は間違いないだろう。最後に一文を引用したい。P314から。『そしてある夕方、私はそこに、あなたの掌の上に、現れるだろう、小さな硝子(クリスタル)の彫像のように静かで純粋な姿となって。あなたはわたしを見るだろう。私の周囲にはもはや何ものも存在しないだろう』
悲しく、切ない男の半生
★★★★★
盗みをはたらく、強盗にも手を染める、この、ジャン・ジュネの半生を綴った本には、そんな描写がたくさん出てくる。盗みをしなければ生きてゆけない、そんな厳しい現実の描写にやられてしまった。しかもジュネは投獄され、終身刑さえ喰らいそうになったのだ。
ジュネの同性愛描写には、どこか物悲しいところがある。単なる恋愛小説ではない。愛する男に愛情を抱いたり、フラれたり、の連続。そんな悲しさをどこで晴らせばいいのか・・・やはり彼は盗みに手を染める。
話がそれるが、ウィリアム・バロウズ「おかま(クィーア)」は、あの中の悲しさもやはり、本書「泥棒日記」に似ているかもしれない。
この本でのジュネは饒舌だ。男はなぜ美しいのか、なぜ私は男を愛するのか、というモノローグの連続である。「葬儀」「ブレストの乱暴者」でもそうであったように。
ジャン・ジュネによる、純粋な恋愛小説、これがそうだ。残酷なほどリアリスティックだが。