天才親父が化け物爺を描いた傑作
★★★★★
のっけから色事、食い物、芝居、なんでもござれ。久世光彦の名文章でも描ききれないような
人間を超越したごとき森繁の魅力が余すところなく描かれた逸品である。
掘り下げれば掘り下げるだけ、森繁の魅力と底知れない奥深さが味わえる。愛車のキャディラック
を移動ラブホとして数知れない情事を重ねた森繁が、窓をたたく巡査に注意された逸話などは
抱腹絶倒。なんせ、クルマの周りには覗きの野次馬が群がり、見かねた巡査が窓をコンコン。
で、注意方々「あのー、ついでにサインもらえんでしょうか」。こんな底知れない人物は、二度と
現れないだろう。なんせ、最期にイタしたのが79歳というではないか。
久世光彦の筆の冴えもさることながら、ほのかに感じるのは、久世の向田邦子への淡い恋心である。
決して正面から描いてはいないが、行間ににじむ想いが確かに伝わってくる。また、希代の悪筆
だった向田邦子の原稿を活字に拾うことができるのが青山に1件だけあって半ば専属になっていた
のだが、ソコのマセたガキが刷り損じのゲラを読みふけっていた。これがなにを隠そう、今を
ときめく三谷幸喜だというから、ひっくり返ってしまった。彼の才能とギャグセンスは、久世光彦
と向田邦子の直伝なのだ。
向田邦子はとうとう森繁に「落とされず」に逝ってしまった。彼女の事故死のニュースを、学生
時代の旅行中に知ったのを、今でも鮮明に覚えている。そういう世代にとっては、化け物のように
底知れない人物を、稀代の天才文筆家が描いた珠玉の名作である。たとえ古書で数万円になっても
手にとる価値がある。そんな1冊。できれば、「森繁自伝」と併せて読むことをお勧めしたい。
森繁自伝 (中公文庫BIBLIO20世紀)