そこはかとなく漂う反天皇のにおい
★★★☆☆
上奏と内奏、奏上の違いをこまごまと説明するところから始まり、陸軍は厳格な形式を踏まえた「上奏」を行ったのに対し海軍はアバウトだったとか、内奏の内容は人事関係が際立って多かったとか、終戦後の芦田内閣時に一旦は内奏が廃止になったとか、初めて知る話が多い。
天皇が統治権の総攬者であった明治憲法下の「上奏−裁可」が、新憲法下で廃止されたのはわかるが、今も事実上の国家元首なのだから、閣僚らの折に触れての内奏、奏上は当然だと思う。
本書によると、昭和天皇は戦後も意見表明を行っているが、昭和天皇自身が自分は戦前も戦後も(仕事ぶり・執務姿勢は)変わらないと述懐していたのをどこかで読んだ記憶があるので、戦前も今とそう変わらない立憲君主だったのだろう。今も政治の最後のストッパーとして天皇の役割は重要だと思う。
最後のほうで、代替わり後の内奏についての章で、今上天皇の名を呼び捨てにしているところに著者の底意を感じた。
国家統治と統治権者の人格を完全に分離できない王朝的慣習
★★★★★
昭和天皇が、現行憲法下の戦後も、日本政府の施政に対して色々と口を挟んでいた事実は一部で知られていたが、こういうふうに政治家たちと関わりを持っていたということは、「天皇制」を批判する勢力からは批判される材料になるだろうなと思う。
もっとも、どこまでなら許され、どこから不可かとなると、きわめて微妙な問題を孕み、実際問題、現行憲法のもと「象徴天皇制」とはいえ、諸外国からは「元首」ないし「立憲君主制」と見られているんで、たんに儀礼的レベルというだけでは片付けられない問題が、直接、天皇の許に持込まれるケースもあったというし、どこまで踏込んで好いものやら、時々の政治情勢に応じて個別・具体的に判断してゆくほかはないのも止むを得ないところだろう。
それでも、まだ「大権の総覧者」だった時代の気分を引きずっていた昭和天皇と異なり、今上天皇は、きわめて言動に抑制が利いているうえ、すっかり「臣下」のほうも「国民」の立場に馴染んで、いささか過剰に思える地方行幸などのさいの警察官僚や地方自治体首長ら、また一部マスメディアのはしゃぎ方ぶりを除けば、これといって問題視するような材料も見当たらず、まあ、当面は、そのつど微調整するていどで結構なんではないか。
ただし、『木戸日記』や『西園寺公と政局』などの記述に捉われて、事実よりも昭和の宮廷勢力が、親英米的ないし平和的勢力だったとする見方に関しては、今後も新しい材料が出るたびに修正して行かなければならないことにはなるだろうと思う。本書、第4章の1.「田中義一首相不信任」の項なども含めて。
結論に異議あります
★☆☆☆☆
天皇に申し上げることを、大きく「奏」と言いますが、近代以降、公的文書には「内奏」「奏上」「上奏」等と表現されてきました。著者によれば、旧憲法下においては、裁可を伴うものを「上奏」、裁可を伴わない、報告などを「内奏」と称したようです。「奏上」はそれらを含む広い概念ですが、「上奏」が公式に決まった形式であったのに対し、簡略のものを「奏上」と呼ぶことがあり、「海軍が…天皇への報告手続きを簡略なままにするために、海軍では上奏とは言わずに奏上という用語を使用し続けたのであ」(39頁)ったようです。
陸軍統帥部は上奏という手続きを踏み、また、内奏時における昭和天皇の鋭い御下問を畏れ、それが一種の歯止めになっていました。逆に海軍にはそれがないため、暴走しやすかったわけで、あえて極論すれば、それが対米戦争につながったともいえるでしょう。
戦後の新憲法下においても、総理大臣や閣僚の内奏は基本的に続けられてきました。その有り様、特に昭和天皇の御代の内奏が豊富な資料によって描かれています。
膨大な文献、多くの資料を駆使し、信頼できる著書、といいたいのですが、「戦後、象徴天皇制になって上奏は消滅する」(231頁)とあるのを見ると、それは躊躇されます。たとえば、手元にある、国立公文書館「平成21年秋の特別展 天皇陛下御在位20年記念 公文書特別展示会」の図録をひもとくと、こんな文書の写真が掲載されています(原文は縦書き)。
日本国憲法第六条第二項の規定により高等裁判所長官竹崎博充を最高裁判所長官に任命するについて右謹んで裁可を仰ぎます。
平成二十年十一月二十五日 内閣総理大臣 麻生太郎
それに閣議決定の文書があり、その最後は、
…内閣は高等裁判所長官竹崎博充を最高裁判所長官に指名し、左のとおり閣議決定の上上奏いたしたい。
高等裁判所長官竹崎博充
最高裁判所長官に任命する。
つまり、現在においても、天皇の国事行為の際、裁可を求める上奏は行われているのです。そうすると、本書の肝心のまとめ部分が誤りとなってしまいます。国立公文書館では定期的にこのような公文書の展示をしているので、著者にはぜひ見ておいてほしかったと思います。
内奏全般を知るにはよいかも
★★☆☆☆
内奏に関して、その歴史的経緯から現在に至るまでの意味を網羅しており、内奏というものを全く知らない人にとっては好著かもしれない。
だが、決してそれ以上ではないところが残念。先行研究で衆知のことが多く、新発見というものがあまりなかった。
新書だと、ここら辺が限界なのだろうか?
他の人も触れてましたが「部員瀬島隆三」とあるのは「瀬島龍三」の変換ミスなのでしょうか? 乱筆・乱文で人のことを責められませんし、
著者を非難するつもりは毛頭ありませんが、実は私はここのミスでシラけてしまいました。
中公新書ってこの程度のレベルでしたっけ? 神は細部に宿ることもあるでしょうから、もう少し編集レベルで注意してください。
「内奏」を知る
★★☆☆☆
前半は、戦前における首相・閣僚による「内奏」行為を振り返り、近代政治的「内奏行為の定義」を試みている。後半は、一転、戦後の「内奏」例を各種資料によって「紹介」する構成になっている。近代政治における内奏行為の存在を知らしめる点においては相応に興味深いが、「内奏行為の定義」に、学術的に明快な結論は与えられていない。また、戦後内奏行為の「紹介」は、秘話「暴露」的な範疇に留まり、内奏行為が持つ政治的意味合いの変遷に関して、具体的な論を見出し難い。内奏行為と、それに関する昭和・今上天皇の意識を知るという点においては評価出来るが、資料及び例示の羅列に比して、「結論」を前提とした明瞭な論が欠落しているため、全体として冗長の感は否めない。