サンデル本に比べ、リベラリズムへの突込みが甘い
★★★☆☆
朝日ニュースター『宮崎哲弥のトーキング・ヘッズ』に著者がゲストとして出演し、本書も紹介されていたのをきっかけに通読。同じ、講談社現代新書の森村進『自由はどこまで可能か』が自分的には大ヒットであったのでかなり期待した。
著者の菊池理夫という人はきっと誠実な人柄なのだとは思う。しかし、本書は御自身の専門であるコミュニタリアニズムを擁護しようという気持ちが強く出過ぎて、コミュニタリニズム誕生のきっかけとなったリベラリズムに対する突っ込み(紹介・批判)があまりなく、初心者には誤解を与えかねない記述となっている。コミュニタリアニズム=社会民主主義+地方分権主義との印象が強い。特に後半は地域主権に関する記述が続き、多少場違いな印象さえ受けた。
やはり、功利主義→カント的な人格主義→ロールズ流リベラリズム→ノージック流リバタリアニズム→コミュニタリアニズムという弁証法的な思想の流れをつかむにはマイケル・サンデルの講義・著書の方が詳しく、分かり易い。
本書の特色は、現代日本固有の問題にコミュニタリアニズム的な立場から言及している点であろう。ま、当然、反小泉・竹中路線なのだが、その批判の仕方もやや陳腐で、テレビで時折拝聴する亀井静香氏の主張と殆ど変わらぬように思われた。やはりコミュニタリアンは経済的にはケインジアンなのか?そこらあたりの解説がもう少し欲しいところ。
新書で読める恐らく唯一のコミュニタリアニズムの紹介なので、その点では非常に有難い。
コミュニタリアニズム―その思想的エッセンス
★★★★☆
本著の主題であるコミュニタリアニズムとリベラリズムとリバタリアニズム、それぞれの思想的位置関係については仲正昌樹氏の『集中講義!アメリカ現代思想』(08年,NHKブックス)がベターであると考える。そして先ず、日本人が筆述したリバタリアニズムのハンドブックとしては、森村進氏の『自由はどこまで可能か』(01年,講談社現代新書)が優れていると思料するけれど、この菊池理夫氏の著書も現代コミュニタリアニズム(厳密には、著者はリベラル・コミュニタリアニズムに立脚している)の思想的沿革やエッセンスなどを凝縮した格好の入門的解説書と言えよう。
とりわけ最近、当書でも紹介されている米国の著名な政治哲学者、マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』(10年,早川書房)がベストセラーとなっているようだが、「ハーバード白熱教室」でお馴染みのサンデル教授も、「正義(=権利)」より「共通善」を重視するコミュニタリアンの系譜に属するとされる(本書pp.42‾44)。この「共通善の政治学」とは、菊池氏によれば「人間のつながりや共通性を強調し、コミュニティにおける自由で平等な成員がともに熟慮して議論して、共通の目的を実現していく民主主義の政治を主張するもの」(同p.58)としている。
アリストテレスを淵源とする「共通善」という概念は、日本人にとって判りにくいものがあるが、そのキーワードは「コミュニティ」である。そういった文脈で、当著にも登場する広井良典氏をはじめ、私としては三浦展氏や服部圭郎氏などもコミュニタリアンに括っても良いような気がする。さらに、当著では「ソーシャル・キャピタル(社会資本)」(ロバート・D・パットナム)を「共通善」とニアリーイコールとする考えを示している。確かに、「社会資本の構築は容易ではないが、社会資本は、民主主義がうまくいくための鍵となる重要な要素である」(『哲学する民主主義』p.231)からだ。
経済についての内容が無いよう
★★★☆☆
本書を読むまでコミュニタリアニズムをムラ社会や少し排外的な印象を持っていたが、それが誤解であると言う事が書いてある。同じような本でも「国家の品格」のような教条主義・観念主義的な文章ではないので不愉快は無い。しかし経済に関しての記述が殆ど無く市場原理主義の批判のみに終始しているため、結局は理想論でしかないのかなと思った。
もっとなんかないんですかね
★★☆☆☆
最近、コミュニティということに興味がある。極端な個人主義・自由主義が金融危機で行き詰まっている。そんで、アメリカでは民主党が政権をとって、リベラルな大きな政府を実現しようとしているが、効果については未知数である。
ちゅうと、結局、個人でも国でもなく、その間にあるコミュニティを基盤とした社会を作っていくことができないか、ということを考える人がいてもおかしくない。コミュニタリアニズムというのは、ざっくり言うとそういう主張である。
本書は、コミュニタリアニズムの歴史的形成過程、リベラル(との近親性)、ネオリベ、リバリタリアニズムとの対立などを丹念に追って、紹介している。例えば、以下のような箇所。
<北米でのリベラルとコミュニタリアンの対立は、実際にはそれほど大きくありません。むしろコミュニタリアンは、極端な個人主義であるリバリタリアニズムやネオリベラリズムを批判していると考えたほうがよいことです。
そのため、リベラルとコミュニタリアンは両者が補って「収斂」していくべきだという主張が多くなってきました。実際に、リベラルの中でも、コミュニタリアンの批判を受け入れ、「コミュニタリアン・リベラル」といわれるような主張もあらわれています。また、現代のコミュニタリアンの多くは「リベラル・コミュニタリアン」と呼ぶことができます。
しかし、それでも両者の違いはどこにあるのでしょうか。アメリカのリベラルは「正(ライト)」、つまり個人の「権利(ライツ)」を尊重する「正義」を何よりも優先させます。それに対して、コミュニタリアンは「善(グッド)」、つまり普通の人々が共通して追求していく「共通善」を優先させます。> (p. 36)
しかし、ここでがっかりした。いったい、「共通善」なんて中身のない概念で「日本を蘇らせる」ことができるのだろうか。あとの方でもう少し「共通善」とは何か、について菊池氏は述べているのだけど、全く具体性がなく、説得力がなかった。ナイーブの一言に尽きる。別途紹介するが、ZEEBRAの自伝の方がよっぽどこういう考え方を伝えていると思うね。
さまざまな可能性
★★★★★
これは面白い本です。共同体主義がいかに誤解にさらされているか。
そして共同体主義にいかに可能性があるかがわかります。
どうしても共同体主義を批判する人は自分の都合のいいように解釈する人が
多いようで、その誤解を解いてくれます。
沖縄についてそして地方分権化についても書いてあります。広井良典さんを
引用しながら福祉や経済についても述べています。
ドイツには存在しない「講」についてシーボルトの息子などからも引用しています。
開かれたコミュニティについて考えたい人に是非。