リアルな描写とみずみずしい文体の勝利
★★★★★
「ルーマニアなんか縁遠い国だ」「マンホール生活者の暮らしなんてあんまり興味ない」と思っているあなた。まずは、ホームレスが暮らすマンホール内部を書いた冒頭だけでも読んでほしい。
「干涸びた鼠の死骸を踏んでしまった不快な感触が、靴の底から伝わってくる。目が暗さに慣れるまで時間がかかるから、目をよく凝らさなければならない。顔の周りを飛び交う無数の小蠅を右手で追い払う。むせ返るような湿気と、鼻腔の奥を強烈に刺激する糞尿の臭い。僕はふと棺桶のほうがよっぽどマシだと思う。」(第1章 傷跡―春)
五感を刺激するリアルな描写が、一気にブカレストの貧困生活者たちの地下世界へと導く。そして、あっという間にこの本を読み終えてしまうだろう。
『世界の日本人ジョーク集』『戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録―芸人たちが見た日中戦争』『昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち』などの作品を精力的に発表する若きルポライターのデビュー作。
歴史や社会情勢をきちんと押さえながら、貧しい子どもたちとの交流をみずみずしい文体で描いている。『ジョーク集』シリーズにつながる小咄もところどころ挿入され、硬軟織り交ぜた文体が最初から最後まで私たちを飽きさせない。
「鎌田慧氏推薦」の傑作。
地下で暮らす子どもたち
★★★★★
「ルーマニア」といわれても、知っていることは、ほとんどない。
東欧の国、チャウシェスクによる独裁があった国、たしか、吸血鬼ドラキュラの国。
その程度しか浮かばない。
著者の早坂隆氏は、2001年から約2年間、ルーマニアに滞在し、現地の言葉を習得しつつ、マンホールの下に暮らす住人たちを取材した。
マンホールの下を住居にしていたのは、チャウシェスク政権が崩壊した後、街中に現れたストリートチルドレンたちだ。
親に捨てられた孤児。
捨てられてはいないが生活苦のため家族を離れて暮らし始めた子ども。
人種差別や虐待を理由に、孤児院から逃走した子ども。
彼らは、物乞いや、廃品回収、ときには万引き、スリ、引ったくりなどで、生計を立てている。シンナーやタバコが嗜好品になっている。
日本に日本人として生まれ、育った人間と、ルーマニアの貧困層に生まれて育った人間との間には、どうにも埋められない溝のようなものがある。
しかし、この本を読むと、早坂氏がその距離を埋めようと努めたことが分かる。
日本人とルーマニア人との間に距離はあるが、早坂氏は彼らと「同じ人間」として心を通わすことができた瞬間があったのではないかと感じる。
マンホール生活の模様は、丁寧に記載され、臨場感があふれる。
子どもたちがマンホール生活を始めた経緯や、彼らの家族のことを細かく聞き出している。
相手が子どもでも、正面から、厳しい質問をすることもある。
子どもたち、それぞれの言動から感じたことも、正直に書いている。
私にとって、とても遠かったルーマニアだが、この本で少し近くなった気がする。
貧困の中の自由と尊厳
★★★★☆
社会主義の独裁者・チャウチェスクが革命の果てに処刑され、
自由経済主義の風が吹いた。
ルーマニア市民のみならず、世界中が明るく新しい国になることを
祈願した。
しかし、もともと経済的に豊かではなかったルーマニアは、自由経済で
貧富の差が開いてしまった。
都市部に孤児や貧困層の家出少年たちが集まって、マンホールに暮らす
「浮浪児」と化した。
物乞いや万引き、残飯あさりなどで命をつなぐ彼らは、孤児院は嫌だという。
孤児院には苛烈な差別と暴力と理不尽がある。
貧しい実家には、酒浸りで子供に暴力をふるう無職の父親がいる。
父親も社会の下層に位置する経済的な被害者なのだ。
彼らは「自由」を求めて劣悪な環境のマンホールに暮らす。
それは、人間として、最後の尊厳を守りたいという明確な意思表示だ。
虐待と暴力の果てに、文字通り、満身創痍の彼らは「シンナー」に
依存することで苦痛に満ちた現実を忘れようとする。
劣悪な環境に生まれ落ち、詩的な感受性をもった純粋な魂を宿しながらも
傷つき、悪徳に染められていく。
社会の最底辺ではかなくも朽ちていく子供たち。
絶望的な状況でも、かれらは「夢」や「希望」を著者に語る。
その切実さに打たれながら、豊かな日本で漫然と生きている我々の心にも、
孤独や絶望の風穴があいていることを思い出す。
マンホールに暮らし、偏見と罵声を浴びつつ生き続ける彼らほどの
「誇り」や「自由」を、なによりも純粋な魂を、我々は
はたして持っているのだろうか。
やがて、観光立国、EU入りを狙う国の方針から駅前の浄化作戦
が行われる。
マンホールを追われた彼らの行方はわからなくなる。
彼らと真摯に向き合ったがゆえに、
著者は自分と彼らの決定的な差を痛感する。
横の関係を築きたかったが、所詮は自分は恵まれた日本人であり
縦の関係しか築けなかったのではないかと。
カメラにこぼれるような笑顔を向けた写真がすべてを語る。
ひと時の絆でしかなかったとしても「共有した思い出」は永遠だ。
庶民の肉声を肌で感じて丹念にすくいあげた素晴らしいルポタージュ。
ルーマニアのある時期の空気を閉じ込めた結晶のような名著だと思う。
青空
★★★★★
生まれたところや 皮膚や 目の色で
いったいこの僕の何がわかるというのだろう
―THE BLUE HEARTS 『青空』
そんな怒りと悲しみがリアルに感じられました。
ロマ(ジプシー)への差別、マンホールで暮らす子供たち・大人たちへの蔑視、
社会の格差と生活苦。
ルーマニアの現状を覗き見て、日本に暮らす自分の生き方を、改めて見つめ直しました。
より良い社会を作っていきたいですね。
著者の早坂さんの勇気と行動力に脱帽。
広く冷静な視野に基づいて書かれた文章は読み易く、一見難しげな社会情勢もわかりやすく書かれています。
おすすめの一冊です。
肉声で綴られる「物語」
★★★★☆
ルーマニアのマンホールに住む子供たちを
その国の歴史や社会状況と重ね合わせて
巧みに描いたルポルタージュ。
紋切り型の表現も見られるが
その場所のその視点にしかないような
等身大の感情のやり取りを感じることができる
これはスクープを貼り付けただけの「ニュース」ではなく
身を寄せて丹念な肉声で綴られる「物語」である