新徴組"総裁”「清河八郎」を収録
★★★★☆
新徴組の”総裁”とされる「清河八郎」を収録。出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士(士分ではなく醸造家である)、斉藤豪寿の子。
千葉周作の玄武館、昌平黌では安曇艮斎門下として尊皇攘夷の思想に染まる。後、14大将軍家茂の上洛に際し,家茂警固の新徴組結成の建白、認められて、その一員となるが、
役職は幕臣のみに多く与えあられて,清河は無位だった。上洛後、清河は,本性を顕し,「新徴組は尊皇攘夷」と唱えるが,従うもの少なく、帰京を余儀なくされる。
その際帰京を拒んだ,近藤勇らが後に,新撰組を結成する。
この清河、海音寺潮五郎にとっては、人品骨柄、尊ぶべきものなく、傲岸不遜の士とみえたようだ。
海音寺が挙げる例は以下のようなものだ。
「甘やかされて育った豪家のこどもでわがまま」
「攘夷のための金銭を無心しながら、その金を度々登楼に費やしている」
「相手の人物をくれる金のたかで判断する傾向にある」
「父母への手紙で、薩摩公、中将位の公卿の名を上げ、自分を飾る」
「まるで後に公開されることを狙ったような日記の書き振り」
「出生地名の清川から河の字を使った姓に変えるが、これは大河の河である」