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日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)

価格: ¥1,155
カテゴリ: 単行本
ブランド: 新潮社
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網野史学ファンでも……大丈夫です。 ★★★★☆
まず、この刺激的な帯!
「その昔、娼婦は聖なる職業だった−−なんて大ウソ!」
こ、これは。「あの『もてない男』の」小谷野先生による網野批判か、網野史学批判なのか!? と思い、目次をみる。
「第三章 遊女論争−−網野善彦による『密輸入』」
「第五章 中世の遊女と網野史学」
……キタコレ!!
説明しよう。網野史学とは、農業民中心の日本中世史に異議を唱え、非定住民、非農業民、職人に着目し、日本が従来考えられているほど均一でも同質的でもないことを唱えていた網野善彦先生にはじまる歴史学の流れである。
その網野史学に、あの小谷野先生が異議を唱える。それだけでドキドキ、ゾクゾクしながら本書をひもときました。……ちなみに、私は学生時代からの網野史学のファン(専攻は別ですけどね)ですが、小谷野先生のエッセイも愛読する者です。
で、結論から申しますと。ホッとしながら、ちょっと残念に思いながら、私は本書を読了しました。そうです。小谷野先生は日本史の学究ではないのですから、批判の矛先は網野史学ではなく、その上につみあげられたイデオロギー的な部分に対してになるのです。
私の読後感では、本書は帯で唱えた主張を論証することに、成功しています。これだけの文献を渉猟し、まとめ上げる小谷野先生も、やはり流石なのです。
文献の引き出し+著者の考察 ★★★☆☆
ほとんどが文献の引き出しとそれに対して当否を著者が考察する形になっていて、前書きで一般人に読んでほしいと書いてある割には読みにくくて面白くない。
前書きにもある通り、こうしてまとめた人が日本人にいなかったからこういう実験を試みたことは評価に値すると思うが、もっと文献をよく理解して、著者自身の言葉で語って欲しかったと思う。
論文にするならともかく、一般人向けとして書いているのだから余計にそう思う。
論旨明快も・・・ ★★★★★
膨大な文献の渉猟ぶりは圧巻である。
著者の主張も明快である。

健常者が病人のこころについて
論じることには限界がある、と同じ理屈で、
売買春を語るのにその者(多い)自身の過去や
実際の経験といった具体的な背景と切り離してしまうと、
(経験したことがないくせにああだこうだと言うのは)
空論に過ぎないではないか、と。

売春婦に心を寄せてみると口で言うのは易しいが、
どんなに言葉を飾ってみても、
経験者・当事者でない限りそれは偽善でしかない。

現在、日本の特殊風俗店で何がおこなわれているかについて、
赤裸々に描写しているところは喝采に値する。
「おお、すげえ、その通りっすねぇ」と声を出したいほどである。
大阪飛田新地の実態についての記述はとくに素晴らしい。

しかし。あとがきにあるように、
著者は売買春の「うしろめたさ」を気にしているようであるが、
どんな職業にもそれは大なり小なりあるではないか。
職業に貴賤なし、著者にはズバリそう言って欲しかった。

また、面接まで行って結局、特殊風俗店で働いたことがない、
という女性論者に対して、著者は「論者としての有資格者に近い」
というような一定の評価を与えているが、これには違和感を覚える。

体験が乏しいかまったくない者の言論は、どんなに語彙が貧弱であっても、
体験が豊富な者の言論には絶対に及ばない。前者の態度は、
ちょうど、表紙だけを見てその本の書評や感想を書くのと同じである。
本当に歴史を検証しているのか? ★☆☆☆☆
この本を期待して手にとった僕としては、落胆させられた。
選書というからには、まずしっかりとした文献による検証があると思って手にとった。
だが、著者のやっていることは、「文献を主観によって否定する」というだけのことである。
著者はおそらく「売春婦とはこういうものだ」という考え方をもっていて、それで歴史を見て、文献を見ているのだろう。
だが、それでは研究にはならない。研究とはしっかりと記録の中から事実を抜きとって提示することだ。自分の経験を根拠にして意見を言うだけなら、単なるエッセーのした方がずっと面白くなるのではないかと思った。
著者がどう意図してこの本を書いたのかわからない。だが、もしやるなら選書という学術的な形ではなく、エッセーや小説としてやるべきだったのではないかと思う。
とても肩すかしをくらったような気がした。
今更の佐伯批判より、網野善彦批判の方がスリリングだった ★★★★★
 毎度の史資料博捜ぶりで立派な歴史研究の体裁を整えているが、終章結語の「私の目的は、ここに達成された。(中略)古代から現代に至るまでの、一貫した日本売春史を記述することによって、(中世の遊女=聖なるものと論じる)そうした論者たちを追い詰めることが、私の目論見だった」(p208)という大見得通り、基本的には批判書だろう。しかも「「聖なる性」という表現を用いて遊女を論じたのは、やはり佐伯をもって嚆矢とする」(p77)以上、本書は「『遊女の文化史』を二十六歳で刊行し、大きな話題となった」(p210)佐伯順子(的ナルモノ)という偶像を徹底破壊する試みでもある。
 しかし佐伯的ナルモノへの「義憤」(p210)を長年抱え続け、こんな研究まで仕上げてしまった著者の執念には尋常ならざるものを感じる。これはほとんど、裏返しの恋文ではないか?
 ただ私としては、佐伯論文はどうでもいいが、「「遊女は聖なるものだった」と言うためには、当時の人々がそう思っていたことを証明しなければならない」(p61)という一文は、サラリと読み流せない。いわゆる唯物史観や精神分析は「為すところを知らざればなり」という主体観を含むし、これは科学的概念の全般にも敷衍可能かもしれない。ポパーに与する著者はそれを認めないかもしれないが、では著者自身の『退屈論』や鹿島茂の『ドーダの近代史』は、どう評価すべきなのか?
 ついでながら菩薩=娼婦∧慈母のイメージを継ぐ作品に、松田英子・浅野温子出演の映画『聖母観音大菩薩』(77)も加えて欲しかった(p96)。あと、「近世以来、娼婦を正妻とした知名の士」(p148)としては、生島治郎なんて入りませんか?