上巻第一章まで〜人間の存在意義を問うた骨太の作品
★★★★☆
「晴子情歌」の続編であるが、題名からして「現代のドストエフスキー」から「現代のシェークスピア」へと幅を拡げる意図か。重い十字架を背負った作家の宿命ではある。地方を牛耳る政治家一族、国と地方の政治と金権の関係と構造、更に宗教を絡ませて描いた骨太の作品。時代設定も私の大学生時代から社会人時代に重なるもので、物語に生々しさを感じた。「レディ・ジョーカー」で娯楽作家と言う偽のレッテルを払拭した以降の作品は作者本来のものと言え、「書きたいものを書く」との姿勢が窺え頼もしい。
榮の政談、彰之の宗教談義は口頭にしては精緻過ぎるが、これが持ち味だろう。宗教を採り入れたのは政治・現実の混迷と宗教の体系の対比の意か。作者は政治家に<空>を求めている様である。私が同時代を生きたせいもあるが、政治面は大部の割には既知の情報が多く新鮮味が無かった。それにしても、これほど実名の政治家を入れての政談は、小説なのか時事放談なのか判然とせず、「書きたいものを書く」難しさを痛感させる。一方、仏行の描写も別の意味で破天荒で、仏教の解説書以外で、仏行や教義の問題をここまで突き詰めた書物は前代未聞であろう。宗教と言うよりもハイデッガーの意識論をも持ち出した哲学書の趣き。極論すれば、本作は人間の存在意義を問うた作品である。<リア王>をモチーフにしている以上、この後、<王>榮の疑心暗鬼、後継者問題と言った俗な世界に入る筈だが、その展開及び宗教・哲学との係わりが如何に描かれるか第二章以降に期待したい。
以下は作中の齟齬と私の勝手な願望である。
・角栄を保守本流、福田を反主流と記しているが"誤り"で、保守本流は福田の方。
・岩手四区も俎上に載せていれば現在の政局に"just fit"だった。
・「むつ」を話題にするなら、「非核三原則」や「安保密約」まで踏み込むべき。
ひたすらに、読むことでしか、高村氏からの応答はない
★★★★★
まずは上巻の感想である。
晴子と彰之の母子の物語であった「晴子情歌」続き、榮と彰之の父子物語となっている。叙事詩と言っていいほどに、語りが深く長い。政治家の一日にしても、曹洞宗の作法や教えについて、あるいは出家時代の話にしても、ここまで克明に語りつくすことが本当に必要なのか、何のために書いているのかという気になる。辛抱のない読者は最初の数十ページで投げ出してしまうかもしれない。小説の長さや改行のない文章について不平や苦痛を表明する人は多いようだ。瑣末的な事象、特に曹洞宗などに関する哲学問答に関する批判も多い。
しかし、本当にこの小説は「長すぎる」のか? 私は否と考える。それが高村氏の小説作法なのだろうと。瑣末な事柄を積み重ねることでしか見えてこないものがある。それは彼女の小説で一貫しているし、研ぎ澄まされることはあったとしても、緩むことはない。
彰之がこれ程の修行を通しても仏教的境地には達することができなかったという挫折感を書くためには、あえて冗長なる文章を連ねる必要があったか。あるいは、榮の永田町での一日も同様。政治家の一日とはどういうものか、政治家とは何を考え、どういう人種であるのかということを彫琢しようとするならば、克明な一人称的記述が適切との作家としての回答であったのだろう。
最初の数章の「くどさ」は皮膚感覚として強烈な印象的を残す。あえて瑣末という批判を覚悟で描ききった高村氏の筆力に私は脱帽する。何だか分からない力に押されて、とにかく読む進めるというのが、本書に対する読書作法か。高村氏は小説にミステリーどころか、ストーリーも求めてはいない。それを求めると裏切られることは『晴子情歌』で経験済みである。
難解すぎる
★★☆☆☆
「リビエラを撃て」を最高傑作と思っているため、評価にはバイアスがかかっているかもしれない。「晴子情歌」で、日本人の生きかた、歴史を、歴史に登場しない人物の視点で描くことで、文学であるとともに、叙事詩のようでもある(本文が何と言っても手紙である)、という作者の手法は、今回の作品では、禅宗の教義、経、本山末寺制度への言及が余りにも煩雑、頻繁なこともあって、難解で、読みにくい。
青森(日本の農村、日本の土着的な部分を象徴しているのだろうか)の産業発展に人生をかけた政治家の人生が物語の軸になっている。リア王と同じように、上の息子には裏切られる。しかし、僧侶となった末の息子は一体コーディリアなのだろうか?主人公の栄(リア王)は、末の息子に救済されたのだろうか?物語は、結末が示されず、そのまま終わってしまったように見える。
青森の歴史、六ヶ所開発の挫折についてとても詳しい。関係者には、産業開発の歴史書としても読めるだろう。
晴子情歌が序、本篇が破なら、続編は急かしらん。楽しみ。
あらゆる意味で読む者を圧倒する小説。
★★★★★
読み始めるとその世界に一気に引き込まれるのだが、気軽には読み始めることができない作家。しかも大作ばかりだ。居住まいを正して読め!雑念を払ってから読め!そんな声が聞こえてきそうな作家。読む側にも緊張を強いる作家。わたしにとって高村薫とはそんな作家だ。
そんな作家が選んだ題材が政治と宗教(生臭物と精進物?)。舞台は青森。日経新聞の連載を何度か読んだ限りにおいてはミステリーの要素はなし。重そうだなぁという先入観があって長い間積ん読状態にあったのだが、読み始めると結局圧倒されっぱなしのまま上下巻を読み終えてしまった。
ただ、高村の人間観・宗教観に充分浸れたものの、一度読んだだけで理解できたという自信はない・・・。
ミステリーの要素は一切なし。政治家が実名で登場し実際に起こった出来事とリンクしている部分がエンタメ的要素といえるかもしれないが、政治の世界を描くにあたっての小道具に過ぎず主題ではない。それでもこれほどの大作を書き上げる力、そして、読む側に緊張を強いながらも一気に読ませる力、決して読みやすいとは言えないが「力」を感じる文体。いい意味での「重さ」「硬さ」を感じることのできる素晴らしい作家だと思うし、他の方が仰るとおり高村薫は「純文学」作家なのだと思う。
ただ、このまま進んでいけば、新たに獲得する読者よりも、離れていく読者の方が多くなってしまい、作品を発表する場所が狭まってしまうのではないか、という余計な心配をしてしまう。
危険高度に達するということ
★★★★★
同じ時代に生きている芸術家ということで 僕は三人の人が気になっている。一人は作家の村上春樹だ。25年くらいの期間 村上と同じ時代の空気を吸いながら僕も中年になり 村上も60歳近くなった。
もう一人は映画監督の北野武だ。二作目から気になりだし ソナチネは映画館に観に行った。HANABIが ベネチアで賞を取る前の事だ。最近の北野はだいぶ変容してしまい 僕にとって少し難しい監督になりつつあるが それも同時代にお互いに生きていることの醍醐味だ。
三人目が 言うまでもなく 高村だ。
高村がサスペンス作家であると言われていることに違和感を長らく持って来た。実際 「マースクの山」を読んでいる限り かような言われ方は まずもって正当なのだと思う。但し 個人的には あまり評判にならなかった「照柿」を読んだ際に 小躍りするような興奮を覚えたものだ。「照柿」には しっかりとした純文学者としての高村の顔が見えたからだ。
それにしても 本書まで来ると 純文学としても 次第に孤高という感じが強くなっている。
題材は政治であり 宗教であるわけだ。ある意味で 極めて現代的なテーマであり ここには同時代者としての高村がきちんと見える。しかし その「語り」の特異性には すさまじいものがある。
高村の「文体」は極めて硬質だ。豪腕作家といわれるゆえんだ。しかも 本作に至っては その「硬さ」が 孤高な地点にまで行ってしまっている。ある意味で 危険高度に達しているのだと思う。とても万人向きではないし 僕も 十分打ちのめされる思いで頁をめくったものだ。
本作は サラリーマンの読む日本経済新聞に掲載されていたということは事件なのだと思う。しかも 高村と日経新聞は最後には揉めた末に連載が終わった経緯も記憶に新しい。
当たり前だ と 僕は思う。こんな孤高の純文学は 満員電車の中で 目で追うだけで読めるわけではないからだ。
高村は これからどこに行くのか。それが同時代の作家を読む醍醐味だ。