”知の欺瞞”の反論本にあらず
★★★★☆
本書はいわゆるポストモダニズムの興隆からグロス&レヴィットによる『高次の迷信』、そしてソーカル事件までの一連の論争を最初に持ってきているのだが、中盤以降は科学人類学やフェミニズム科学論など話題が多岐にわたっていて、ソーカル事件だけを扱っているわけではない。
ソーカル事件についての著者の立場はポストモダニズム側、と言うわけでもない。デリダやドゥルーズらを全く支持しないと明言しているのだから。しかしソーシャルテクスト誌には同情的である。この部分で著者が挙げるいくつかの弁護理由は、個人的に全く同意できない。たとえば編集者がインチキ論文を見逃したことを、多忙を理由に弁護できるのなら、編集者の存在意義そのものが問われるのではないだろうか?
おそらくソーシャルテクストに同情的なのは、ソーカルらに対する感情的反発の影響なのだろうが、しかしそうであっても全体の価値を損なうようなものではないし、本書はこの前後の論争を手際よくまとめている。また科学社会学、科学人類学の主なトピックを知るにも優れた一冊だと思う。
「読者を愚弄してる」は言い過ぎでは?
★★★☆☆
サイエンスウォーズで標的となった「悪しき相対主義科学論」の牙城・科学社会学(STS)を在野で真面目に学ぶ私は一時は物理学者になろうかと真剣に考えたほどの子供の頃からの科学の大ファン。それだけにポストモダン思想家による科学概念のいいかげんな流用には眉をひそめてきたひとりです。そんな私にさえ科学社会学分野のもっとも優れた文献は原典をきちんと最初から最後まで熟読してみればどこにも明白に馬鹿げたことは書かれていなかったように思えます。
科学の部外者が科学のことに首をつっこみすぎること自体が許せないというのでなければ、『知の欺瞞』だけ読んでいわゆる「相対主義科学論」の全貌をわかった気になるのはよして科学社会学の重要文献をじっくりお読みいただきたい。本書『サイエンスウォーズ』が肩入れしていてサイエンスウォーズで特に槍玉にあがっていたカルチュラルスタディーズ系の科学論は実は科学社会学においてはけっして主流派ではありません。STSの主流派の重要業績はクーンやポパーといった伝統的・正統的な科学哲学・科学史の中心的問題に正面から挑み目覚しい成功をおさめた文字通り「科学論の最先端」を称するに値する仕事です!
もちろん「社会構成主義」を称する文献全てがまともなことを言っているとは私も思いません。それは本書で金森さんが社会構成主義に「嘲弄に値する部分がある」と述べておられる通りです。しかしながら社会構成主義の最重要文献の著者たちはいずれも、研究対象となる科学者たちの科学研究を謙虚に理解する努力をしたうえで科学を論じています。原典をひも解いていただければその勉強ぶりには目を見張るでしょう。これらの著作は実に深く考え抜かれたものです。
人文系の学問は全て究極において「哲学」です。それはこの世の中を新しい目で眺める知的実験のようなものです。科学も「この世」の一部である以上その知的実験の対象からはずされるわけはありません。哲学と科学の幸福な住み分けができた時代―そんな時代があったとは思えませんが―に戻るなどそれこそ馬鹿げていると思います。
長くなりましたが、本書中の一章「社会構成主義の興隆と停滞」(か私の書いた科学社会学文献のレビュー)を参考に原典にあたってみてください(英文ですが簡単に読めるすぐれた入門書がありますよ☆)。科学とその歴史の新しい見方の斬新さと奥行きは、科学を愛しそれに携わる方々こそ一番楽しめるはずだと信じます。
読者を愚弄するな
★☆☆☆☆
物理の某教授が講義中に本書のことを非難していたのを聞いて、何をそんなに腹を立てるような話でも書いてあるのかと実際に読んでみたところ、全く呆れてしまいました。これは野次馬の野次馬未満です。著者はサイエンスなんか本当は興味がないのでしょう。科学をネタに屁理屈や中傷にひたすら学術的粉飾を施して自己陶酔し、それでいて哲学への我田引水にも失敗していて、結局のところ「俺はソーカルみたいな奴は気にくわない」というだけのボヤキを言っているにすぎません。
この本の出版をきっかけに著者は東大助教授のポストを掴んだそうですが、まあ大学の人事は摩訶不思議なものです。理系の人間がこんなものを読んでも、著者の専門とする科学論や科学哲学に対する不信と軽蔑を強めるだけだと思います。
哲学者寄り
★☆☆☆☆
非常に哲学者より、ソーカルが批判したことについては何も答えていない。
著者はただ倫理面に論点をずらすだけである。
『知の欺瞞』との併読は必須
★★☆☆☆
科学やモダンのもつ危険性について危惧・警告することはたしかに重要である。しかしながら、著者の主張はローカルら科学者に対して、科学哲学の位置づけの弁護にしかなっていないように感じられる。すくなくとも私には『知の欺瞞』で提唱された批判には何も答えていないように感じられた。モダンを批判するのは簡単であるが、それにはモダンを理解(ゲーデル、非線形動学、カオス、複雑系等を理系学部生レベルでも良い。ソーカルであれば哲学科のコースワークはパスするであろう。)することが先決であろう。それが科学と哲学の対話の第一歩ではないか?